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ステツキガール抗弁

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 これは少々空恐ろしいことです。一体無思慮であり過ぎるわたくしはつい何の気なしに−元より悪気はないのですが−云つた言葉が・・・・と恥入ります。不徳のせゐに違ひ有りませんが、あゝも何でもなく、しかもキヤフエーの片隅でほんの漫談として言葉が−−
「君、この間、君が一緒に歩いてゐた人は誰だね」と云つたやうな質問にたいして、わたしは、
「あれかね、あれは云はばステツキさ」
 なぞと軽くあしらつて答へたものです。と云ふのはその人は誰でどう云つた人柄だなぞと云ふのも億劫だし第一無用のことだし、何も当のベラミー達を軽侮するつもりはさら/\なかつたのだが、面倒臭いのと一つは問題を軽く打切るためにさう云つたものです。
 英語ではMr.(Mrs.)Stick-in-the-mudとその人の名を忘れたときに云ふさうです。それは某君或は某夫人の意味ださうだが、わたしはその当時そんな言葉があるとは知らずに、何気ないとは云ひながら、考えてみれば極めて怪しからぬ、冗談にしても無躾すぎる言葉を使つた。尤もそれは数年以前のことです。当時日本フエビアン協会と云ふのがあつて、その有志が高尾山にピクニツクをするときの案内状にそのピクニツクもプロレタリアのピクニツクだから略してプロピクと云ひましたが、その案内状に大宅壮一氏か木村毅氏の執筆と思つてゐますが、当日は夫人でないステツキを精々お帯同下さいなぞと書いたものだ。苟くも新社会の建設を目ざして設けられた日本フエビアン協会員が冗談とは云へ、婦人問題にたいする右の如き重大な過失言をしたのは許しがたいことである。と、他人のことは云へない。わたし自信うつかり口を滑らした過失もこの際お詫びしなければならない。お詫びした上でさて申上げる。婦選獲得運動なぞの前に、婦人を人格視せず、物的に、しかもステツキの如き手持無沙汰を補ふ物品呼ばはりをすることにたいして断乎として講義すべきことをおすゝめする。むしろ煽動する。尤もそれも意味の取りやうの如何で、若し厳密に云へば愛称としてはよく動物の名を用ひる。「わが鳩」(マイダヴ)と女のことを云つたり、「わが仔羊」(マイラムリング)と云つて愛人や子供を呼ぶこともあることを思へば、「わがステツキ」として愛称に出来ないこともないが、それは少しく詭弁に過ぎるやうな気がします。何れにしてもステツキなぞと云ふ呼び倣はしはよろしくありません。
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 が、幸なことにはわたし共がほんの冗談事として一、二度内密に云つたにしても、それは余程以前のことでして、わたしだつて、日本フエビアン協会時代にしたピクニツクの連中だつて忘れてゐたことです。
 しかるに数年後になつてステツキ・ガールなどと云ふ言葉が卒然として人々の口の端にのぼり始めた許りでなく、一種の流行語みたいになつて居り、さらにメイ牛山夫妻がホリウツドにまでお土産として持つて行つたときいて、わたしは愕然として驚かされてゐる次第です。成程。かりそめにも、一、二度にせよ、「あれかい、あれはステツキさ」とホンの小声で、キヤフエーの片隅で、それも一、二人の人に話したにせよ、さうして何気なく落とした言葉が今日まで数年間も潜伏してゐてそれが時を得て発芽したものとはどうしても思はれないのです。わたくしの見解するところではどこかに皮肉な新聞記者がゐて、その人達が新聞に書き出したのです。銀座にはステツキ・ガールと云ふものが出現した云々と。すると好奇心に燃えて、心持が巷の風のやうに動揺常なき人々がそれを面白がつて話題にする。それにたいして「まさか」と否定するもの、「いや、ほんとうにあるのださうだよ。某某はいつぞやの夜さうした種類の女に、何丁目の街角であつて一緒に歩いてお茶をのんだと云つたよ」と肯定するもの、まるでまち/\になる。開き直つてこうわたくしは云ふ、「事実が理論を生むものだた、理論が事実を生む場合だつてある。」
 ステツキ・ガールがあるのないのと噂してゐるうちに、茶気満なのか、無意識的に体得した需要供給の原理によつて、さうした義勇兵として登場しようと不心得にも心得るものがないとは云はない。今の時代は何となく不確実な霧によつて覆はれてゐる。さうした時代と人心とを俊敏にも察知した新聞記者が悪戯に云ひ出したことではあるまいか。今の時代が時代である限り、筆先で、口先で市に三虎を走らせるのは訳ないことである。事程左様に人々に自信がないのか、それとも、そんなにも好奇に向つてひたむきに走りたがるのか、その断定はハツキリとする必要はありませんが、何れにしても事実さうした動向があります。わたしにして、若し暇と生活上の余裕とがあれば、そんな世間を相手に幻術を試みるでせうし、それはまさしく他人の作つた探偵小説をよむより愉快であるに違ひありません。
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 さて、ステツキ・ガールなる名称が新聞や雑誌に現れ初める。すると、さうした事実のあるなしは委員付託として、一体全体そんな怪しからぬ言葉を誰が云ひ出したのだと云ふことになります。いたづらずきのどこかの記者が云ひ出したと思ひますが、さあさうなるとかね/゛\不徳で知られたわたくしなぞは嫌疑者とされます。すると高田保の如きいたづらには人後に落ちない才人がゐて、それは新居格が云ひ出したので、なぞと無用にして余計なことを喋べります。
「断じてさうではない」
 と、弁明しても平生が平生なれば疑ひは晴れず、それに昔思へば冗談にもせよ、それに類似したことがあつたとすれば免れられぬのも尤もです。わたしはこれも数年前「モダンガールの輪郭」といふ一文を雑誌に書いたために、木村毅からモダンガールの言葉の創始者と銘打たれたために世間の印象を悪くし、今度はまた高田保によつてステツキ・ガールの名付け親の如くに思はれかけてゐる。持つべきものは悪友で、かくてわたしは、幸にも浮かばれないものになり勝ちなのである。それに、一たび彼は徒に奇妙な新造語を作つて世間を惑はすことをうれしがる軽佻浮薄な男であると烙印を捺されると、それは少々暗い弁解してもどうにもならないものだ。澄明の水が堆積すると深碧の色をなすやうに幻像も幾重にも重ねると生動感がある。
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 私が前橋で講演して風評を排撃し「ステツキ・ガールと云ふが如き軽佻浮薄の造語なぞをつくるものか。そんな言葉は鬼に喰はれて仕舞へ。現代に処して最も叡知でありたく望む女性達は異常な勉強をなすべきである」と論じて宿に引上げるべく講演会場の入口で自動車を待つてゐると、わたしの後で登壇した竹久夢二が「わたしは昔、女のことをステツキのやうだと云つてゐたが、わたしの言つたのは別に広がらず、新居格が云ひ出すとそれが流行語となつた」と喋りつゝあつた。何分か前あゝまで熱烈にそんな言葉が自分の造語なものかと論断したわたしは何分か後に夢二からまた翻させられてしまつたのである。尤もどつちだつていゝことだが多勢に無勢では敵はないと詮めざるを得なかつた、よろしい、何が何でも引き受けやう。そんな些事に気を労するほど神経質でもない自分だ。だから、言葉の源がわたしにあるにしても、わたしは実在があるとは思はれない。如何に物ずきな連中の多い当節だとはいへ、この不景気な世の中に若干金を支払つて、莫迦々々しい、何のためにつれて歩く女ぞやである。女だつていかにそれが新職業として成立ちうるにせよ、あまりに詰らなさ過ぎる。
 だから、わたしは断固として断言したいのだが、ステツキ・ガールなんて存在してはゐないのであらうし、また存在すべき理由がないのであると。
 だが、新聞記者がその筋を訊ねて「銀座にステツキ・ガールと云ふのが出現したさうですがほんとうですかね」と聞かうものなら、「断じてゐない」とも云へないし、(もしあれば困るものだから)先づ「どうも当局は気をつけてゐるが取締りには弱つてゐる」と云ふらしいのである。その談話が新聞に出ると読者は「あゝ警察で云ふところを見ると、満更なくもないのであらう」と云ふことになる。かくしてあるかなきか、むしろないかも知れないし、あるかも分からないやうな怪訝なものがあるらしく思へて来るのである。
 わたしが幾年か前つい口に出した自分は単なる比喩でしかあり得なかつた。そして一寸した対話の上での使用で、きはめて私事的のものであつた。
 ところが数年後の今日ガールといふ名詞を後に附けて新聞雑誌の上で活字となつて現はれると、事実のあるなしは第二段として、社会的客観性を具有するに至つたのである。しかもそれが職業的意味合をもち、時代の風俗製と関渉をもつに至ると一つの社会事象なのである。わたしたちの幾年前かのざれ言が(逃げる謂ではないが)今日の社会事象のひとつとなつているかに見えるステツキ・ガールと直接にも間接にも関連があるとは−−ハツキリ云ふが−−どうしてもなささうに思へてならない。わたしの抗弁はそこにある。が、読者は果してわたしの抗議を一片の詭弁とされるであらうか。
 今話の上での比喩が幾年か経過の後に事実を生んだとは思はれない。
 むしろ、時代の風俗性がそれからそれと移変して来た。そしてそれはステツキ・ガールがありえても少なくとも突飛ではあり得ぬと云ふ程度にあつた。俊敏なヂャアナリストが巧みにもそれを捉へて一場の手品をして世人を面食はせた、だから、わたしがその言葉の創始者だとだしぬけに召喚されても全く呆気にとられざるを得ないでないか。
 わたしはそこで、二つの方法しか云ひえない。「わがステツキ」として対話上の愛称に浄化させるか、遍く天下の女性を煽動してわれらを侮蔑する言葉「ステツキ」をあらゆる男性の唇から冗談にも吐かさせないやうにするか。二つに一つである。お前がそも/\云ひ出して今になつてなぞと云ひつこはなしにしませう。

(「近代明色」p138〜p146)→近代明色 新居格著 中央公論社 1929 334p 0.80円


・「ステッキガール」に関しては、西尾信治「東京エロオンパレード」(1931・昭文閣書房→ 三一書房「近代庶民生活誌1」収蔵)の「マッチガール」に
「 ステッキガール、円タクガールが創作と空文で生れて消えたが、マッチガールだけは・・」
と云う下り有り。因みにマッチガール、とは、カフェの広告入りマッチを配っている女給を云う。


・同・西尾信治「東京エロオンパレード」より

       ナンセンス・スケッチ

 銀座通りの夜。
 一人の断髪の美人がモボと腕を組んで喃々と語りつゝ歩いて来る。新橋の橋のところまで来ると、突然立ち停つて、
女「私これで失礼します」
男「さうですか」
女「頂戴な」
男「え?何を?」
女「一時間一円です!」
男「…………」
女「私ステツキガールよ」
男「僕は……僕はステツキボーイなんです」


・ステツキガール←→ハンドバツグ・ボーイ


(981103追記)
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