白炭屋カウンターへ
新居 格のページへ

抜き書き新居格


幻聴の銀座

 仲秋名月の夜の銀座を、三越の三階と屋上庭園にマイクロホンを据ゑ付けて放送した。 それをわたしは、家に寝転んでゐて聴いた。そのときわたしはかう思つた。 大都会の躁音を通して感覚される銀座は、不断散歩してしてゐる銀座よりも、 数層倍賑やかな華麗な街といふ気がしたと。視覚に映じた銀座と、 聴覚によって泛べられた映像のそれとの相違だ。
 アナウンサアは云つた。「ここは銀座三越の三階の窓際であります。」
 自動車、電車のひびき、夕刊売の鈴の音、人々の跫音と話声、 楽器店に鳴らしてゐる蓄音機−−それらが囂然雑然として銀座の交響楽を醸し出してゐた。 その間に服部時計店の大時計が時を打つた。それらのひびきは散歩をしてゐる時にはそんなにでもない。 われわれの感官が麻痺してゐるのか、 それともラヂオで聴取したときのやうにひびきを一まとめにして耳にしないからか、 ラヂオを通じて聴いた銀座は如何にも雑閙した、さすがに東京の中心地とはこんなものかと感じた。 よく銀座を散歩してゐるわたしがさう思ふ位だから、まだ一度も銀座を見たことのない地方の青年男女で、 しかも通俗小説や映画で銀座を想像してゐるものは、ラヂオを通じて銀座の声を聞いてゐて どんなにか華麗の街と感じたことだらう、と考へた。と、 わたしは地方にゐるそれらの想像者のことをあべこべに想像した位だつた。 音響の点から銀座を考へるのも一つのの考へ方だ、と思った。
 視覚に訴へる銀座も明るくなくはない。ネオン・サインは色とりどりに眩しいばかりに輝いてゐる。 店頭の窓飾から投げ出す光、それが縦横に交錯してゐる。光の園とも云へよう。 だが、その視覚で受取った銀座より、ラヂオを通して耳で感じた銀座の方が、 少なくともわたしには何倍か大きく何倍か華麗に映つたのであつた。 わたしは幻想の銀座は、現実のそれよりも遥かに郭大されるものとしたかつた訳である。
 窓には水色の星や白い月が懸かつてゐても、歩道の人々は見上げはしない。 月が出たとか、星が輝いてゐるとかと云つた対話は、銀座では先づきかれない。 天の光も地に届くが、地上の光に打ち消されるからだ。ただ雨だけは問題になる。 雨の銀座、雨後の銀座は光が冴え、舗道の上にも反射をギラつかせて 銀座の街は一層美しくなるからである。
 映画にしても、月と星はシーンにならない。 ただ雨だけがと云ふことにならう。それよりもトオキーとしての録音が重要になるのである。

■初出『銀座』昭8・11/5(モ都Wによる)
(本文は『生活の窓開く』(第一書房)p312-314より漢字のみ常用漢字に直して起こした。 『銀座』版とは若干の違いが存在する様だが、原典を発見できなかった為。)


 月が誘つたんだ。暮れ易い冬のたそがれ。 でも、空はうす藍いろに澄んでゐて、月が白かつた。 風はない。その月を海港でみたかつたのだ、わたしは。
 桜木町までは何の雑作もない。桜木町の駅に着けばさらに何でもない訳だ、 山下町なんだから。シガレツト一本を喫む間にタクシイは着くであらう。 バア・ミス・ヨコハマの扉を押すと、ミス・ヨコハマは明るい頬笑みをたゝへて"Houdy"
と、云つた。それからすぐ握手。
 わたしには全く珍らしいことなんだ。−−
ウイスキイーの量をウンと多くして、それに少量のタンサンを割つてのむなんて。
そして彼女も。
Cheerio!と、叫んで二人は乾杯した。

「薔薇いろの煙」(『街の抛物線』)より。


■はじめに

 新居格、という作家に意識的に出会ったのは、三年前の事である。
 それは平凡社「モダン都市文学」シリーズのW巻、「都会の幻想」p256にある 「幻聴の銀座」という小コラムだった。この文頭に引いたものがそうだが、 このシリーズが敢えてこの作品を収録した理由も解る。 「モダン」感覚の傑作と言えよう。フィルタを通した方がよりリアルであり得ると言う感覚。

 平凡社「モダン都市文学」シリーズは、海野宏、川本三郎、鈴木貞美らの編集により 「1920−30年代に発表され、当時の都市風俗をありのまま伝える文学作品、 ノンフィクションを網羅した新しい文学全集(巻末広告より)」として編まれた、全十巻の全集である。 平成元年より三年間続いて配本されたこの全集を通してその時代の作品が持つ魅力にひかれた私は、 その中でも、この作家の存在に心ひかれた。
 「新居格」という名は、このシリーズの中で何度か印象的に登場する。 銀座の散歩者、街頭詩人、明るいディレッタント、世相の尖端を生きながら、 いわゆる「尖端人」ではない、落ちついた科学的・論理的モダン感覚の持ち主、 そして何より「モダン・ガール」の産みの親、そういうイメージ。

■「モダン都市文学」シリーズの第T巻に登場する格の、その解説を引いてみるとこうある。

「新居 格 にい・いたる
 一八八八〜一九五一。「労働文学」「新興文学」等の左翼雑誌に執筆し、 文学評論や社会時評、あるいは風俗時評と広範な批評活動を展開した。 また、モボやモガという風俗語の作り手と目された事実が示すように、 鋭敏な文化感覚の持ち主でもあった。 大正十年(一九二〇)に評論集『左傾思潮』を刊行、主な作品に『アナキズム芸術論』(昭5) 『街の抛物線』(昭6)等がある。ほかに、パール・バックの『大地』の翻訳(昭10)もある。」
(モダン都市文学T『モダン東京案内』p390脚注)

 つまりはそういう人物だった、のであるらしい。 何となく「主義者」臭い。亡くなって、もう四十六年経つ。

 私はこの作家の文章を意識的に探してみた。 正直、この文章センスならきっと何らかの形で現在でも手に入るものが有ろう、 と踏んだのだ。だが調べてみると、格の名を付した作品は、現在中野好夫の補訳で刊行されている 「大地」(新潮文庫)、つまりは翻訳書のみであった。 一度は、そこで諦めた。このシリーズに収められた「モダン都市文学」は、 龍膽寺雄、吉行エイスケ、堀辰雄、佐藤春夫、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、 村山塊太、夢野久作、萩原朔太郎、稲垣足穂、川端康成、坂口安吾、 井伏鱒二、芥川龍之介、海野十三、大宅壮一、伊藤整、、、等々、 多数の作家に及んでおり、新居はその中の一人でしか無かったからだ。

 然しその後、新居の名を忘れかけた頃に読んだ 「モダン都市文学U『モダンガールの誘惑』」(巻次順に読んだ訳ではないので) 収録「百パーセント・モガ」(大宅壮一)の冒頭で、衝撃とともに再び彼の名に出会うことになる。

「 A夫人は、日本に於けるモダン・ガールの元祖である、原型である。 少なくとも、「モダン・ガール」という言葉は、 最初、彼女一個人を形容するために、私の友人N君によって発明されたものである。」 (p396)(大宅壮一全集第二巻ではp11に同文)

この「N君」についての脚注には

「1ー私の友人N君
 新居格を指す。明治二十一年徳島県生まれ、 東大政治科卒。読売新聞などの記者を経て文筆生活に入る。 政治的にはアナキズムの思想家として、 また社会風俗面ではモダニズム擁護の評論家として知られる。 真偽は別として「モダン・ガール」の語の創始者が新居だという話は 当時リアリティを持っていた。
<文壇における先端的傾向の先駆者として、ささき・ふさ、 大井さち子の二人をあげることができる。 前者は最初の「断髪」婦人として、 後者は新居格の創始にかかる「モダン・ガール」という言葉の原型として有名である。> (大宅「女性先端人批判」昭5)」

とあった。何より気になったのは、彼が徳島県人だったと言う事だ。 「その頃」の徳島の作家と言えば何と言っても海野十三、 あるいは名前だけなら貴司山治、しか頭に無かった私は正直驚いた。

 彼が一体どの様にして徳島で育ち、東京は高円寺でどの様に暮らし、 またどの様にして「モダン・ガール」の創始者と見られるようになったのか。 そして何よりも、何故現在、全く顧みられることなく−斯うしてその紹介から入らねば成らない程に− 忘れ去られているのか。そういう事を考えていた時に、彼の評伝が有ることを知った。 徳島新聞で 平成元年七月−八月、五〇回にわたって連載されたものが、単行本として出ていたのである。

和巻耿介・著『評伝 新居 格』 (文治堂書店/1991/12)という。

 其処には街頭詩人としての格だけでなく、内罰的でやたらと卑下をして、 こんな事では駄目だと言いながらそれでも低きへ流れてしまう、 一人の人の良い市井人の姿が描かれてあり、 成程これが新居格か、と非常に楽しく面白く読んだ。 恐らく今現在、新居格をもっとも詳しく記録した本なのではあるまいか。
 ところが、この本には致命的な欠落が有った。 可成り多くの資料を底にしている様なのだが、多くの引用の出典を (大量に引用しているにもかかわらず)明らかにしていないのだ。 せめて巻末に付けても良さそうなものだが、参考資料のリストは全く無い。 (一体この「文治堂書店」というのはどういう出版社なのか・・・) 所詮は新聞連載と言う事か。
 だが最早私は格の魅力にとりつかれてしまっていた。 果たして今、『評伝 新居格』に自分なりの補完をしてみたいと思っている。 評伝にはあまり描かれていない徳島時代について、 そして、評伝中には全く触れられていない格の「作品」そのもの、 私が惹かれた原因であり、恐らく現在再評価されうる最大の可能性である格の 「モダン」時代の「作品」の魅力について、私なりの駄弁を少しくお聞きいただければ幸いである。


 まずはもう少し人名辞典等からの引用を続ける。 現在全くと言って良い程忘れられている新居の、そのアウトラインを掴んで頂きたい。

・「御大典記念阿波人物鑑」(徳島日々新報社・昭和三年三月)p470

「著述家
 新居 格君
 明治二十一年板野郡大津村大幸に生れ、徳島中学校、 第七高等学校等を経て大正四年東京帝国大学法学部政治科を卒業せる法学士、 読売、大阪毎日、東京朝日の各新聞社に記者として在社した事があり、 其間に東洋経済新報社の記者を勤めた事もある。 現に文化学院教授及び東京毎夕新聞社文芸部長たる傍ら著述を業とし、 評論創作の筆を執り「左傾思想」(ママ)「近代心の解剖」の評論及び「 月夜の喫煙」の短編小説集の著述がある。現住所市外高円寺六六九。」

これが昭和三年(1928年)、格四〇歳の姿である。


・1951年11月、朝日新聞に載った死亡記事

「新居格氏(評論家、前杉並区長) 十五日午前十一時ごろ杉並区阿佐ヶ谷三ノ八四九の自宅で 脳イッ血のため倒れ午後五時半死去した。六十三歳。 告別式は十八日午後二時から世田谷区上北沢三ノ八六三 日本キリスト教団松沢教会で行う。
徳島県出身、大正四年東大法学部卒、読売、大毎、 朝日新聞記者を経て文化評論家と著述で独立、 日本ペンクラブ幹事、文化学院教授、中国研究所理事、 日本ユネスコ協会理事などを歴任した。 戦後第一回の選挙に杉並区長に当選、廿三年春辞任。」


・さらにその後、格が亡くなった二年後に出た「新撰 日本文學辞典」(學燈社・昭和28年8月)p478

「 新居格 にいいたる
 評論家 明治二一〜昭和二六(1888〜1951)
 【略歴・業績】徳島県の人。東大政治科を卒業。読売・大阪毎日・ 東洋経済・東京朝日等の記者を経て文化学院教授となった。 戦後、杉並区長に選ばれた。彼は早くから文芸を愛好し新聞社を退いて後、 虚無的思想をもって文芸界に特殊な地位を占めた。 文壇における存在は、傍流的・孤立的ではあるが、 彼一流の虚無的無政府主義的立場に立って独自の評論を発表し文壇の注目をうけた。 しかし極端なものではなく、国際性をもった自由主義的評論家としても見られている。 昭和二六年、六十四歳で没した。
 【著作】小説集「月夜の喫煙」、随筆集「季節の登場者」「生活の錆」、 評論「無政府主義文学論」「左傾思潮」、翻訳「大地」(パール・バック原作)等。」


・格の朝日時代を知る評論家、嘉治隆一は「折り折りの人」(朝日新聞社・昭和42年2月)2巻p193で
新居格と岡上守道
    <独創的文化記者、コスモポリタン記者>

として格を紹介している。

 東京、杉並の高円寺に住み、 戦前はサラリーマン相手の生協購買組合の代表者などになり、 戦後は杉並区長にかつぎ上げられ、文化区長の名称で呼ばれた新居格も、 没後そろそろ一六年になろうとしている。
 四国の撫養中学から七高に行き、佐野学、中江荘吉などと往来した。 交友会雑誌などに「新居生」と署名していたので、級友からは「ニイセイ」と 呼ばれていたという。東大では小野塚(喜平次)博士に認められ、 早くサンディカリズムを研究題目に選んだりした。 卒業後、記者生活に入り、毎日、読売を経て、朝日に腰を据えた 。人の余り手をつけないイタリア、スペイン等の社会思想、 社会運動などについての書物をいつもたずさえていた。 自分で新居イタリーと呼んだり、自作の狂歌 「道という道はローマに通ずれば、ドン・キホーテよ出鱈目にゆけ」 というのを口誦んだりしたこともある。
 時あって少しふざけた口吻を弄したりするものだから、 誤解されたり、軽視されたりすることもあったが、 心底はしっかりして、決して不まじめな人ではなかった。
(中略)
 朝日をやめてから、文筆生活一本で暮し、特殊な感覚と、異様な表現で、 一小天地を開拓して行った。造語に長じ、「モダン・ボーイ、モダン・ガール」とか、 「モボ・モガ」とか「マルクス・ボーイ」「エンゲルス・ガール」とか、 やや年輩の男性について歩き回るお転婆娘のことを「ステッキ・ガール」 という新しい造語で呼んだりした。「左傾」、「点描」、「人生派」などの言葉も、 この新鮮な神経の持ち主の発想であった。彼の門下といっては少し言葉が過ぎようが、 まず側近の弟分とでもいうべき人に大宅壮一君がある。 奇語、妙語を奔放に駆使するという点でもよく似ている。
(以下略)」

大宅壮一を格の「側近の弟分」と述べているのに注目したい。


最後に、「日本近代文学大事典」(講談社)の新居の項を引く。

 新居 格 にいいたる 
明治二一・三・九〜昭和二六・一一・一五(1888〜1951)評論家。 徳島県生れ。七高を経て東大に学び政治科卒業。 「読売新聞」「大阪毎日新聞」「東京朝日新聞」などの記者生活を経て文筆生活に入り、 文学評論、社会時評、風俗批評に腕をふるう一方、アナキズム思想家としての活動もあった。 大正期には「労働文学」「新興文学」「種蒔く人」「文芸戦線」その他の左翼雑誌に執筆し、 昭和のアナ・ポル文学運動の対立期にはアナキズムの主張をつよめて論陣を張った。 大正一四年宮嶋資夫、麻生義らと「文芸批評」を創刊し、辻潤、吉行エイスケの「虚無思想」の 有力執筆者であり石川三四郎、望月百合子らの「リベルテール」(昭二)にも協力、 また昭和七年には「自由を我等に」を編集創刊、この前後アナキズム系の雑誌新聞にはもれなく書いた。 「原始」「労働運動」「矛盾」「黒色文芸」「黒色戦旗」「自由連合新聞」「解放文化」「文学通信」など。 また自由な立場から「文芸市場」「文化集団」「反対」「文芸復興」「現代文学」のほか執筆は 日刊新聞、総合雑誌、婦人雑誌、週刊誌の各方面にわたった。 著書には処女出版の評論集『左傾思潮』(大一〇・九 文泉堂書店) 『アナキズム芸術論』(昭五・五 天人社)のほか、 『人間復興』(昭二一・六 玄同社) 『市井人の哲学』(昭二二・一二 清流社) 『生活の窓開く』(昭一一・八 第一書房) 『生活の錆』『近代明色』(昭四・一一 中央公論社)などの随筆集、 『月夜の喫煙』(大一五・三 解放社) 『街の抛物線』(昭六・三 尖端社)の創作集がある。 死後に出た『区長日誌』(昭三〇・五 学芸通信社)は 政治ぎらいな自由人が科多々政治経験として注目される。 また左傾、モボあるいはモガといった風俗的な新造語によって知られるように なかなかの文化感覚に繊細な尖端性をもっていた。 第二次大戦後最初の地方選挙で推されて東京の杉並区長に当選して話題をまいたが、 戦前から生活協同組合運動の実践者であったことは案外知られていない。 パール=バックの『大地』(昭一〇・九 第一書房)、 『パピニ自叙伝』、スタインベック『怒りの葡萄』などに代表される訳業もある。(秋山 清)

 この秋山氏の解説に付け加えることはない。データとしてはこれがほぼ全てであろう。


 先の人名辞典で見てきたように、格の肩書きは
アナキズム思想家
社会評論家
文化評論家
小説家
翻訳家
地方政治家(区長・生協運動)
と、多岐にわたる。

 多面的な活動はジャーナリズムには便利であるが、 まとまった業績を残せない為に、忘れ去られるのも早い。 それが結果として現在の忘却に繋がっているのは明らかだ。 現在の同様の活動をしている評論家の多くも、 同じだけ時間を経れば同様に人名辞典の中だけの存在になるのであろうか。
 だが、私は、新居格をその本来と見られる「社会評論家」ではなく 「モダン都市文学」の空間の中で確かに影響力を持ったモダニズム作家として「発見」した。 戦前戦中の作品集の類を読んだ結果、その作品の多くは確かに 時間と共に意味を失う評論の類だったが、しかし「評論家」というだけでは 格の魅力の大切な一面を見逃してしまうことになりはしないか。 この見方は「新居格」という人間の活動全体を捉えるには非常に偏っているかも知れないが、 しかしどうしても新居格の持つ「街頭詩人」「街頭文化人」のイメージを捨て去ることは出来ない。 一九二〇年〜一九三〇年代初期、「モダン都市」を構成する 主要なキャラクターとしての「モダニスト新居格」を再発見してみたい。


■その生い立ち

 前章で見てきた様に、新居格は板野郡大津町大幸村(鳴門市)に生まれた。 この故郷の名は、後に彼の唯一の中編(私)小説とも言える「ニゲラ」の主人公、 主義者・大津幸吉の名に転写される。その村の名前の由来、 「雷の落ちない村」太鼓村、についても、後年何度か作品のまくらとして使われることになる。
 著作を読んだ限りでは、格自身は少年時代を多く語ることは無かった様だ。 特に、初等から高等までの学生時代についての思い出は少ない。

 だが、「賀川豊彦のいとこ」(大宅壮一全集5「阿波日記T」で格はこう紹介される。 「弟分」大宅にしてからが、もはや新居格を「賀川のいとこ」としてだけしか扱っていない) としての立場が、彼の少年時代の記録を(間接的ながら)残させることになった様だ。

『伝記小説 賀川豊彦』(鑓田研一著 不二屋書房 昭和9年12月)に描かれる 賀川豊彦の少年時代に、同年齢の新居格(学年は賀川が、その入学時の手違いから一級上になっていたが) の姿が有る。しかも挿し絵まである大写しで、である。一見賀川と何の関係も無い様な 格自身のエピソードまで丁寧に入っているのだが、そのくせこれが書かれた昭和九年現在の 新居格という人物についての解説は一切無い。或いは、当時は解説するまでもない著名人だった、 と言うことなのではないか。兎も角その伝記小説(”伝記であり、小説である”と伝記の著者が 語っている以上、総てを信じられる訳ではないが)に現れる格の少年時代をなぞってみよう。


 『賀川豊彦伝』(横山春一)、によれば、 大幸村には徳川十一代将軍家斉の頃から柳家という酒造業者があり、 姓を磯部と言った。維新前後の代であった柳五郎は本業以外の米相場で巨利を博し、 公共事業や貧民救済に力を尽くしたと言う。柳五郎に七男一女があり、家督は 長男為吉が継ぎ、三男伝次郎は隣村の賀川盛平の長女みちの聟として養子に入り、 純一と改名する。賀川家は大庄屋であり、藍玉商でもあった。その妻に飽き 足らなかった純一は、美人芸者益栄を見染め、これを愛人として迎える。 その二人の間に三人の男子が出来た。その次男が賀川豊彦である。
 さて磯部の五男は儀十郎といい、新居文二の養子となり、名を譲と改め、 医学を修得して、無養で医者を開業する。格は、その父新居譲と、母キヨの間に 次男として生まれた。長男は幼逝。姉フミ、弟厚、次女ムメ、三女ヒデ、四女テル。 格は弟、姉妹とは別に、祖父文二の元で育てられた。この祖父が、格の精神形成に 大きな影響を与えた様であり、『伝記小説 賀川豊彦』には、その祖父についての 描写がある。


 『おまえのお祖父さんは、ええ人やなア。』豊彦の眼は羨望の色に輝いた。
 『うん、えゝ人や。』格は鞄をふりながら得意さうに言つて、
 『お祖父さんが、俵を着て歩いたの、知っとるか?』
 『知らんな。』
 『米の空俵な、あれを裸体の上にすつぽり着て、両方から手を出して、俵の蓋にして
  ある藁饅頭な、あれをしやつぽにして、東海道を歩いたと言ふで。』
  格の祖父−厳密にいへば、義祖父−の文二が、若い時のことだつた。或る夏、何かの
 用事でお江戸へのぼる時、彼は東海道五十三次を雨ふりにはいま格が言つたやうな
 格好で練り歩き、雨がやむと、俵をぬぎ、しやつぽを取り、それを一緒に背に負つて、
 褌一つになつた。この話は広範囲な磯部系統の親戚の間では、有名な話題になつて
 ゐいたが豊彦はいまが初耳だつた。(p49)

(以下医者兼漢学者文二の徳のある描写があり、)

  だが、かうした文二も、他方では非常にきびしかつた。信ずれば必ず貫き、理の
 ない不義邪悪に対しては、どこまでも峻烈だつた。
  彼が孫に与へるべき絵本をいつも薬屋に預けて置いたといふ(※)一事には、彼の
 性格のユーモラスな一面ときびしい一面とが結びついて、老後いよいよ円熟して来た
 彼の人格が髣髴としてゐるではないか。
  だが、孫の方は、少し賢さが過ぎてずるかつた。(p50)

※(文二は格への絵本を馴染みの薬屋に預け、格が甲を取った時にのみ渡すように言ったという。)
 文二は京都で医学の新知識を学んでおり、また「医は仁術」を地で言った名医だったという。 貧しい者からは治療代を取らず、逆に滋養不足や貧窮が原因と見れば、 食料や金を与えたという。また、わが家に塾を開いて明治の学校制度が普及するまで それは続けられたという。名利に背を向けた生涯であった様だ。
 格の、権威に背を向け名利を計算に入れない気質はこの祖父由来のものであろう。 風采を気にしないというのも似ていた様である。戦時下で書かれた『野雀は語る』の 「自由・不自由」(p236)では、戦時下統制でむしろ生活が簡素になって嬉しいと言い、 だいたい自分は礼装の類はきらいで、嘗ては友人に「今日はネクタイが曲がっていない」 から変だ、とまで言われた「構わず屋」であるのだ、という事を自慢げに書いている。 戦後の『区長日誌』の中でも、格はネクタイを二本して出かけたりしている、が、誰も それ注意しなかった―と言うから、常が常だったのであろう。

 一方、格の父親、新居譲に関する描写は少ない。格によれば、彼の父親は 「医者修業時代から親爺はドン・ファンの名が高かったさうだ。もつとも親爺は瀟洒な眉目秀麗の美男子だつた。」 そうである。その親爺の子であれば、あてになるものではない、として許嫁との 結婚を急がされた、と「早婚論」(『街の哲学』p174)で語っている (因みに、この「早婚論」は、「家庭生活の新形態」(『女性点描』p125)と並び、 格が自分とその家族を面白おかしく描いた数少ない作品だ。書斎で独り黙考するか、 銀座で若い連中と遊んでいるか、旅先で幻想にふけるか、と言った雰囲気の文章が 多い中、この作品は「新居一家」の姿を垣間見せてくれる)。
 話を『伝記小説 賀川豊彦』に戻す。1900年、徳島中学に入学してきた格は、賀川豊彦と 一緒に英語教師片山の開く「片山塾」(塾と言っても磯部一族の下宿の様なものだった様だ) で過ごすようになる。そこで、やはり片山塾に居る従兄弟の口から以下の様な言葉が出る。 「おれたち磯部系統の者は、みんな、血がぬくもると、危険な性(たち)なんだぜ。」(p104) この言葉は後の格をよく表している。
 賀川の家が兄の放蕩で没落し、片山塾にいられなくなり、親類の家に住むように なった頃、「片山の悪口を言つたと言つて、格も間もなく片山塾から叩き出された」 (p129)為、格も親類の家に置いて貰う事になる。この片山という英語の教師がクリス チャンだった事から賀川はキリスト者への道を歩み始めるのだが、格はその頃から 「思想」を持ち始めていた。片山塾生の手前、仕方なく行っていた教会からはとうに 遠ざかり、ある書店に出入りし出す。


「 新町橋際に、黒崎書店といふ看板のかかつた小さな本屋があつた。学校が退けると、
 彼の足はきつとその本屋の方へ向かつた。本屋はそれ以外にもいくつかあり、それが
 みんな黒崎書店よりも立派で、陳列してある書物の数も多いのだが、彼はいつも
 一番にこの本屋の店頭に立つた。」(p129)

 そこの店番の女と懇意になり噂を立てられたりしつつも、格にとっての「恋人」は 「ほかならぬ書物だつた。そして、彼がしげしげとこの本屋へ通って来るのは、 他の本屋には陳列してないやうな書物、社会主義の書物がならべてあるからだつた。」(p131)
 黒崎書店の店主は黒崎正二と言い、当時まだ一七歳だったが、しょっちゅう東京へ 出かけては幸徳秋水や木下尚江の演説ばかり聞いていた、という。格はこの書店で 社会主義新聞「平民新聞」に出会い、社会主義に深入りしていく。書物代は月40円に 上ったという。「こんな豪奢な中学生はどこにもなかつた。」(p131)が、親は書物代 をけちる事だけはしなかったと言う。これに、やはり黒崎書店に通う貧しい賀川豊彦 が対照されるのだが、賀川はそれでもトルストイを買い、格の「唯心論はあかんで」 という言葉に反発するのであった。

 賀川はその頃弁論部長を勤めており、そのつながりから、弁論を苦手としていた格 (「最初の経験」<『街の抛物線』P302>で語る所によると、三学年の時に一度やる つもりだったが、当日勇気を失い、仮病で学校を欠席したという)にも演壇に立つ 日が来る。

 「日本一豪奢な中学生新居格の処女演説があるといふので、一週間も前から大した人気だつた」。 題は大町桂月の美文から取って「我が千行の血の涙」。初めはしどろもどろだった弁論だが、 「急に油が乗つて来た。彼は前後不覚にまくし立てた。唾を飛ばし、手をふり、壇を蹴る 有様が、見てゐるともの凄いほどだつた。」校長が弁士中止を叫ぶが、格は更にわめく。 「革命、暴力、唯物論、女、恋愛、直接行動、無産者、飢餓、血の涙−」(p138には挿絵あり) 果たして格は引きずり降ろされ、斯くして徳島毎日新聞に 「徳島中学不穏の兆あり」と書き出され、格は2週間の停学を食らい、 揚げ句一年原級据え置きとなるのであった。……「賀川豊彦伝」でありながら、この大舞台。 破格の扱いとは言えないだろうか。当時の新居格の認知度を想像させる。

 格はこの後、賀川が軍事教練中に「人殺しをするのは嫌だ」 と言って大尉に殴り倒されるのをかばう、という役を最後に、この伝記小説からは姿を消す。


 その徳中在学中の1905年、格は満16歳で、先に姉が嫁いでいた江富家の三女トク (1887年生・格の一つ年上)と婚姻・入籍する。16歳という早さは、当時も通例であった 訳ではない。先に挙げた「早婚論」で格は「君のやうな早婚は地方の風習なのかねと。 冗談ぢゃない、阿波は印度ではないから、そんな風習はないのだ」等と語っている。 親同士の決め事で結婚はしたが、格は下宿で妻は実家、であった。それでも満17歳で 父となってしまう。
「何しろ親がかりの父親謎といふものは変なものだ。中学生であつてみれば収入の途がなく、 つまり生活がないのだ。経済生活のない家庭はまゝごとの夫婦でしかない。」 そのためか、最初の娘美代子がは二年後幼逝する。そして、 「高等学校の三年は遠く離れて住み、大学時代も上級に及んで妻子と一緒に住んだ。 もとより生活の扶助があつてのこと」(「早婚論」)。結局五人の子供を持った。

 九州で送った高校時代についての回想は少ない。九州に講演に行くと第七高校時代の事を思い出したりするが、 それでも「それらしい」描写は無い。優等生では有ったらしい。 高等学校時代に罹った神経衰弱・・・と何度か言っていて、随分陰気な学生でもあった様だが。 一時は実家である医者を継ぐつもりだった格だが、数学が駄目であったこと、 そして何より血が駄目であったという理由から挫折する。 何より思想書、文学書の類に耽溺しており、文科を志望して親に反対され、ならば法科へ、と法科へ進む。 当時ありがちな展開ではあろう。

 「居住の歴史」(『心の日曜日』p149)によれば、東京では、妻子の来る前に 「弟妹と一緒に中野電信隊前の畠の中の家」に住んだと言う。格はそこから大学へ、 妹は目白の女子大へ、後に実家の医者を継ぐ弟は医学の勉強をしていた。 その畠の中の一軒家から、今度は妻子と共に、小石川金富町の四軒長屋に住んだ。 近くには礫川堂という文房具屋があり、そこの細君が樋口一葉の妹だったと言う。 大学を出てからは牛込を二カ所転々とする。はじめは下戸塚町。陰気な平屋だったという。 裏に住んでいた文盲の鳶の夫婦がいなせで良かったと回想する。次が加賀町で新築で 明るかった云々。この「居住の歴史」では転居にまつわる回想はまだ続くがひとまず置く。
 成人して以後の流れは『評伝』が、日記を元に詳しく再現しているので、それを元に して簡単に済ます事にする。
 大学時代の格は、割と遊んだ方であった用だ。経済的にもゆとりがあった。遊里に しげく通ったわけではない(既に結婚もしていた)。ただ端唄の類、特に歌沢には 凝った様だ。後にその師匠の息子が金を無心に来たりする事でも往事のの入れ込み様 が知れる。江戸趣味があり、歌舞伎も好んで見たらしい。

 東京帝国大学法学部政治学科を卒業すると、はじめ満鉄に入社した。当時マンモス 企業の満鉄は東大法科卒なら無条件で取ったという。だが格はここを一日で辞めている。 いくらかまだ余裕のあった時期で、小野塚喜平次(政治学者・後に東大総長)の 研究室へ飛び込んだ。研究室での格のテーマは「政治学上より見たサンジカリズム」 であった。サンジカリズムは「労組の結集による直接行動で資本主義制度粉砕を目指す 無政府主義的思想」である。
 しかしだんだん生活が苦しくなり、結局小野塚喜平次の肝煎りで読売新聞社へ入社。 記者をしながら研究室へ通う。入社後間もなく論説を書かされたと言うから、時代の 差があるとは言え格の秀才ぶりが見える。
 社用に追われて研究室へ通えない、本が読めない、研究室へ行けば他の連中が 研究しているのを見て羨ましくてならない。この焦燥を紛らわすために、増えてきた 友人知人を訪ね、また訪ねてくる人達と談笑に耽る。酒を酌み交わす。八方美人的 性格がその辞め時をつかませないまま時が過ぎる……。
 読売に在籍すること二年間。読売を辞めた理由は、『評伝』では「明かではない」 としているが、『季節の登場者』のp191「ユモラス・ギロッチン」によれば、 「社長と合わず」とある。この中で格は、クビの大体の理由は「無能・怠惰・危険思想」 だったらしいが、危険思想は当たらないし、無能は仕方ないとしても、怠け者は風貌で 判断された、と自己弁護している。タウゲニツヒ、オブロモフ、ノンキホーテとまで 囃されたというが、しかし何も風貌だけだったかどうか……。

 読売をクビになってしばらくぶらぶらしていたところへ、同じ政治学教室の 吉野作造から声がかった。大阪毎日新聞に行ってみないかという。格は大阪へ行った。 大正八年である。
 大阪毎日では社説専任記者として格を迎えた。一次大戦後の好況の風の中で、労働 組合論が高まっていた頃である。格は理論派の新鋭として重用された。仲間を集め、 文芸同人誌「これから」を発行するなど、愉快に過ごしている。東京の焦燥から 遠ざかり、宝塚で少女歌劇を楽しんでいた格を、病が襲う。急性中耳炎で高熱が出、 一ヶ月意識不明が続いたと言う。それでも何とか死線は越えた。予後の床で格は、 矢張り東京に帰らねばならないと決意する。座り心地のいい大阪毎日だが、 「将来の自分」の為の研究はいっこうに進まないではないか(……と『評伝』は語るが、 格はやたらと休んだからで、クビになって当然だった、と「ユモラス・・」で語って いる)。格は再び上京する。因みに関西では春から夏にかけて京都の浄土寺町に住み、 その後は大阪府下の箕面櫻井で暮らした。

 東京では牛込にあった東洋経済新報社に就職。神楽坂に近い借家に入る。狭いこと この上なく、書斎は二畳であったという。来客も多く、大変だったが「愉快であった」 と回想する。
 大正九年の秋、東洋経済新報社で一年足らず働いた所へ朝日入社の話が訪れた。 しかし、移って見れば、読売や大阪毎日では論説、社説であったが朝日では地方版の 外勤であった。だが、格も新聞記者をそう長く続ける気は無いのであり、目標は 別の所にある。
 この頃の格はかなり鬱屈しており、『評伝』によれば、日記の中で明日こそは 勉強をしよう、と日記に書いておきながら、その実個人訪問、夜更かし、酒、会合、 芝居、そして銀ブラで潰れていく。金を勝手に使えば妻の逆鱗に触れ、もうタバコも 買うまいと反省し……日記は「勉強せよ」「生活を改めよ」「どうして自分はこうも 駄目なのか」の繰り返しである。

 格が初めて稿料を貰ったのは前出「最初の経験」によれば帝大の「国家学雑誌」に 執筆した物で、一枚八十銭だった。文学雑誌では「早稲田文学」に『民族主義の問題』 を書いたのが最初で、これで六円貰った。初めての小説は「新公論」という雑誌に 書いた「火事」というものだったが、酷評されてもう二度と書くまいと思ったという。
 早稲田文学で書いた論がきっかけで、少しずつ原稿を依頼されるようになっていた。 朝日時代には大衆小説「鼠小僧次郎吉」を週刊朝日に短期連載。内容はかなりまずい 物だったらしいが、この頃ようやく地方版から学芸部に移った。

 交際範囲は増える一方であり、社にも休日の自宅にも訪問客は後を絶えない。学芸部 に移ってからは原稿依頼も増え始めた。生活は苦しいままであり、社への来客の多さ、 社外原稿の多さが周りの反感を買い出す。おまけに自分の研究のためのまとまった時間 が取れない。それでも、講演会、原稿、観劇、各種会合、旅行、研究とそれなりに充実 した日々を送っていた。早くから与謝野寛・晶子夫妻を識っていた格は、その関係で 文化学院でもたまに講義をするようになる。大正十二年、関東大震災の年である。

 <朝日の新居格>が売れ、社への来訪は増える一方、周りの眼が険しくなる。雑音が 多くなる中で、関東大震災があった。詳しくは「大地震の思ひ出」(『季節の登場者』 p194 非常に緊迫感に満ちたドキュメントである。中央気象台で与謝野寛と焼ける 街並みを見下ろす箇所など、強烈だ)で読むことが出来るが、兎も角これを機に格の 仕事は減り、或日とうとう「明日より出社に及ばず相成り候……」という手紙が来た。 他紙が「新居格、朝日を辞す」と報道する程度に、アナキスト格の名は売れていたという。

 やっと自由人になれた、という思いと共に、うそ寒さが襲う。退職金は千二十円。 まだ文筆家としての性根が座るまでは、と就職活動をするが、断られてしまう。 既に主義者として名の通ってしまった格を雇う所は無い。貧はつのる。大正十三年は 格が最も貧した時であった。この時期に、格は借金をして高円寺に引っ越す。ここから が格の高円寺時代となるわけである。

 大正十四年には文化学院の常勤講師となり、筆でどうにか食える様にもなっている。 以後、アナキストとしての活躍は『評伝』に全編譲る。ここからは、モダニストと してモダン都市の中に存在した「新居格」の姿を見ていく。


■モダン・ガールの創始者−『季節の登場者』『女性点描』

 冒頭に引いた人名辞典等を見て判るように、彼を語るには「モガ」と言う語の創始者、と言う事を抜きには語られていない。だが果たして、「本当に」格はかの「モダン・ガール」という語の創始者であるのか。彼の初期の著作から、彼自身が「モダン・ガール」の創始者として扱われている事への言及を見てみる。
 初期の文集『季節の登場者』の冒頭、「自由人の言葉」(p4)によれば、世間では「私が所謂モダン・ガアル論を遣り出したのだ相である。」と言われているが、「モダン・ガアルは何も私の創始にはかからない。北澤秀一氏が雑誌「女性」に英国のモダン・ガアルを紹介した。その文中この国にさうした女性がゐるかゐないかは知らないがと云つてあつた」と語っている。その問いかけに対して、「婦人公論」や「太陽」にモダン・ガール論を書いた、と「モダンガールの心臓」(P92)で語っている。
 この事実については、槌田満文「大正・昭和の世相語・風俗語」(近代庶民生活誌3・三一書房)の中の
< 「モダン・ガール」という流行語については、植田康夫「婦人雑誌に見るモダニズム」(現代のエスプリ『日本モダニズム』昭和58年3月)、米川明彦「近代語彙考証(モボ・モガ)(『日本語学』昭和58年7月号)で指摘されたように、北沢新一(ママ)の評論「モダーン・ガール」(『女性』大正13年8月号)が、欧米における状況と傾向を最も早く紹介したエッセイであろう。しかし当時日本にすでに存在していたかどうかについて、北沢は「たとひ私の云ふモダーン・ガールが現に存在しないとしても、近いうちに出現するに違ひないと云ふより外はない」としている。
(中略)
 久米正雄はこの流行語の名付け親が北沢で「種々流布させたものが新居格君、清沢冽君その他」(『文藝春秋』昭和3年1月号「近代生活座談会」)と語っているが、木村毅も「新居格氏の作品とモダン・ガール」(『解放』大正15年2月号)で「今のやうな意味に於けるモダン・ガールなる語は、恐らく新居さんに依って創造されたのだ」と証言している。>
という部分で説明されていた。言葉を創始した訳ではないが、それ−モダン・ガアル−に意味づけをした、そういう意味での「名付け親」だった、と言う事の様だ。大正一四年から一五年にかけて使われ始めた「モダン・ガール」の、その創生に少なくとも「噛んで」いた(と見られた)事は間違いない。
 格はその出版物の中に『女性点描』という女性の問題について書いた「評論もあれば随筆もあり、小品もあれば創作もある。」(同書・序文より)といった、女性問題に関してのみの単行本を出している。恋愛論、貞操論、エロについて、男装の麗人について、美容術の善し悪し等々、から街頭詩人の面目約如たるバッド・ガアルやダンサー、女流作家の美しい描写、都市小説(巻末の「現代の三頁」はモダン風景スケッチの傑作)の類まで載っているこの単行本を見れば、如何に格が女性論を量産したか(そして其処に「あるべき新しい女性像」を描いたか)が解る。格が「モガ」の創造者だと後々まで言われ続けているのには、それなりの量的裏付けが在ったのである。
 因みに、「モボ」(モダン・ボーイ)は「モガ」(モダン・ガール)から生まれた新語であり、大宅壮一の手によるものとされた。先の槌田氏の論からさらに引用すると
<大宅自身が「新居君のモダンガールに対抗して、僕の中間でさういふ言葉を初めて使ったといふだけのことだ」(『新潮』昭和3年1月号「モダーン生活漫談会」)と述べている。>
と言うことである。
 では、あの断髪洋装女性の総称としての、スタイルとしての「モガ」を言葉の上にに定着させたのが格だったのか。
 そもそも、『モガ』とは何だったのか。
当時の新語辞典の類を見れば
「モダーン・ガール(Modern girl 英)近代式の女と云ふ意味であるが、普通には断髪洋装の女を多少軽蔑して云ふ。単に『モガ』とも云ふ。」(『音引正解近代新用語辞典』(修教社書院、昭和三年一月))
とある。「多少軽蔑して」云う、とある。新語、流行語がこうして新語辞典に取り上げられるまでにかかる時間差を入れれば、この語はその発生時からそう言った意味合いを持っていたと考えられる。
 だが格の求め続けた「モダン・ガール」は、当初から既に世間一般の語義から乖離していた。格が名付けた「モダン・ガール」が、格を置いて一人歩きしたと見るべきか。格の求める語義通りのそれは、幻想とも言える、機知と完成と理性と快活と清潔の、そして何より全ての因襲より解き放たれた、真の意味での新しい女性なのである。
 格は、モダン・ガアルは「形」ではない、と著作の中で何度も云う。「形態の上に与へられた意義ではない」、と「モダン・ガールの心臓」では明言されている。「今の世の自称モダン・ガールの履き違ひつたらありはしない。」「私は返す/\も云つて置く。聡明さがなくてはモダン・ガールなんてありはしないと云ふことを。」(同書p139「モダン・ガールの夏」より)
 それゆえ、「今」行われている、「似非モガ」を見て持たれた、悪いイメージから生まれている議論には何の興味もないのだ、と言う。彼の「モダン・ガール」は、自主性を、「自由性」を持った自我的自由人であり、拘束を嫌い、故に約束をしない、そう言った「無意識のうちの解放」があって初めてそうなのである。その上での機知、聡明さ・・・。その自由性の重視については、同書の「文芸と時代感覚」(P79)で「僕の理論したモダン・ガールは無政府主義思想を情感の上に取り容れたもの」であると言っている。
 だからこそ格は自分が、いわゆるモガの「勧進元乃至理論的権威」(同P81)で有ることを否定した。それでも格の「モダン」を扱った論は多い。「モダン〜」という言葉を論じてくれという依頼が有ったからである。
 語義にこだわった格も、しかし『アナキズム芸術論』(1930)の中では、「モボ・モガ」という言葉を軽蔑的に扱うようになる。
<ブルジョア階級は何故時代遅れであるか。/モガ・モボは何故に時代遅れであるか。/原題の文壇が何故に時代遅れであるか。>(「断裁美学の一提言」)
「モダン・ガール」という言葉は完全に彼から一人歩きしてしまったのだ。

 それでも、「モガ」という言葉を捨てて尚、理想の「近代女性」を描き続ける格。『女性点描』でも、格は語り続ける。キャフェやバアのそれ、レヴュ・ガアルの脚のエロはエロ(艶美)では無い。本当のエロスは露出や露骨ではない。もっと清らかな照明を!バアよりソーダ・ファウンテンのさっぱりした雰囲気を。「陰影、無知、溷濁した空気、腐敗、混乱、ヂャッヅ調、強烈な酒、廃頽の感情、暗黒街−」そしてブルジョア有閑。そういうのは既に古いのだ、今は「ビルヂングの屋上にあるミニチュアゴルフ・リンク」で戯れ、空にはヒコーキ。そういう朗らかな空気こそが「新しい艶美」である。或いは「映画と近代女性」では映画俳優に夢中になる「低脳にして批判力なき女学生、押並べて無学なるキャフェーの女給、並に街の女の子」に対して、「近代女性」はプロマイドを飾ったりするのではなく、映画を「批判しつゝ巧妙に近代性を掴取つてくる」ものだという。或いは、夜会服の麗人より清楚なテニス服の美女がどれだけ良いか・・・「知識と情操は出来るだけ高められたい。」新しい女性、は奇抜なのではなく、その男をたじろがせる「知性」なのだ・・・以下「近代女性」のあるべき姿を書き続ける。「モダンには朗らかな清々しさがなければならない」(「近代艶色」)これが大勢が「エロ・グロ・ナンセンス」だった時代にどれだけ抗し得たかは不明であるが。


■モダン・ボーイ格−『街の抛物線』−


 新居格は、その「ノンキナ父サン」体の風体から、同様の内面を重ねられがちだが、其の実「とても親切でこまかく青年や処女とお茶をのみ歩いて青春を失わず、小さなやわらかい女のような文字を書」(近代四国人物夜話p267)いたという。女のような−文字は兎も角、繊細な作品からも解るように、繊細そのものの感覚を持っていた様だ。青い空を見ては手が染まりそうと言い、美しい緑をみては、明るすぎてかえって自分の暗い内面が見えて嫌だという。
 そして「街頭は愉快だ」という言葉を掲げて、当時の他のモダニズム作家達と同様、こよなく銀座を、そのプロムナアドを愛した。大正の末から昭和一桁にかけて、格はいつ出かけても銀座を歩き、銀座の茶房にいて、その周囲に若い連中が−イメージを取れば若い女性達が−屯していたという。いつ出かけても知り合いと会う。だから彼らは「このあいだ新居君と遭ったよ」「ぼくもつい二、三日前銀座でね」と会話する。これが毎日銀ブラしているというゴシップになる。果たして新居格銀座連日出勤説が定着する、と『評伝』は言っている。実際その随筆を読んだ限りでも、格はその顔の広さ故に銀座で度々知人と会う。それが嫌さに銀座に出ないようにしようと思うくらいにである。
 以下、如何にもモダン感覚者らしいところを、いくつか『街の抛物線』から引いてみる。
 半ば創作集、半ば随筆といった趣の『街の抛物線』は、新居格の都会感覚と、そのモダニストとしての位置が最も良く現れた単行本であろう。格自身、他の自分の文集には卑下の極致(或いは無我の域)の様な序文を入れるのだが、この集の序文では、「一種の感慨がある」「この小著は好ましいスーヴニール」とまで言っている。余程の満足作であったろう事は想像に難くない。モダン・ボーイとしての、銀座マンとしての格の魅力が此処には有る。例えば「無意味な風景」(p59)−「近代の大都会があぶくのやうに浮かべる無意味」−として見せるその光景。

B「Aさん、これからどちらへ。」
A「あてはないのです。あなたは」
B「わたしもさうよ」
A「では、オウ・ルヴオアール」
B「オウ・ルヴオアール!何だかあつけないわねえ」
A「さうでもないね」
B「どつかに行かない」
A「といいつつどこへ行くね」
B「やつぱりあてはないわ」(P61-62)

 この種の人間共があてもなくまた用もなくぶらつくところが、まず銀座である、という描写から、このB婦人の「新貞操感」を描写してみる(この集に限らず、格の創作のテーマの多くが「新しい女性」の描写にある)。或いは冒頭に載せた「薔薇色の煙」の類の洒落た情景描写。「描きつぶしのデッサン」(p86)では「枯枝に等しい生活者を何だつて時代の尖端に軽快なスカアートを翻へす女達をよく知つてゐるかのやうに誤解されるのがわからない。」と言いながら、その同じ作品で尖端女性像A〜Gをそれぞれ描いてみたりする。「何が、どんな風に尖端か」目に見えるところには無いが、尖端は確かにあるのであろう。それは模写ではないから、書くことは出来ないが・・・。
 或いは「モダン徒然草」の軽妙な台詞の掛け合い(「君はプレン・ソーダみたいな女だよ。さつぱりしているから。」「あたしがプレン・ソーダなら、あなたは差当たりアイス・ウオタアだわ。・・・」)、その後の男の行動の見事な気障ぶり。
 そして何より銀座のその明色をふんだんにちりばめて描かれた「銀座風景」(p150)。
 「十二月の銀座は華麗な混乱である。」幻想的に賑やかな銀座。ヴァラエティ溢れる行き交う人々。「彼女の歩幅は七六.八サンチ、歩数は一分間に約三十四歩」といった、敢えて感情を廃した描写の効果が軽快感を増す。
「空気は冷たいが、しかしネオン・ライトは冬の夜がかゝやかしい。それにクリスマス・デコレーション、歳暮売出しの装飾が加へられるので、銀座の十二月は色調のジャツヅを呈する。」「窓際にはサンタア・クロースとクリスマス・ツリー。頭の上には旗と広告の看板、電飾は増す。歳暮大売出しのビラは行人の足許に落花の如く撒き散らされる。それを師走の風が巻いて走る。救世軍の士官は社会鍋の前で声を嗄らして風に叫んでゐる。」
この手の描写をさせると格は恐ろしく巧い。まさに街頭詩人の眼である。
 「コンバ・サングラン」「サンクローム調」「シルウェット・ダムウル」「けれど私は躍つてゐる」「サロンの春」「モダン千夜一夜」「モダン徒然草」「モダン日本を考へる」「モダンよりシックへ」「ウルトラ物語」「カフェー、麻雀、ダンス、スポーツ」「カクテル時代」「都市の騒音」「街頭小景」「テイナミーク・ソシアル」等々。サブタイトルを眺めるだけでもこの『街の抛物線』の匂いが伝わろうというものである。「如何にも」なモダン風景画、会話劇等が収録されており、モダニスト新居格の魅力の集大成的な集となっている。
 この頃の格は自身の状況を「わたしの許には毎日相当沢山の来訪がある。そして若い人達が殆どである。」(p270「後端人は語る」)といい、自分は決して尖端人などではなく、彼らが言うことを受け売りしているだけだと言っている。が、そう語るその語り口そのものは後年のものに比べて軽く(幼稚性、軽佻浮薄と批判されたと言うが)、その新鮮味は如何にも「尖端人」という感じである。こんな手紙が来た、と言っては面白い手紙や常軌を逸した若い女性からの手紙を紹介してみたりする。講演に行った地方から来た手紙には、客席の中に居た私の姿を覚えているでしょう、と全く覚えのない手紙が来たり、或いは猫に名前を付けて下さらない?と言う手紙が来たり、つまりはファンが多く居たのである。因みに、この「若い友人」達は、『街の哲学』(昭和十五年刊)まで登場し続ける。若い女友達から電話が有って、バースデイプレゼントを貰う(「春の日曜日」)−という話がそれであるが、この作品以降は、現れない様である。
 『区長日誌』に「弟分」大宅壮一が寄せた文には「私が新居格氏を知ったのは、今から三十五、六年も前のことで、当時私はまだ東大の学生であった。いつも若々しく、いうことも書くことも、もちろん人柄においても青年的なものを死ぬまで失わずにいた新居格氏は、いつもその身辺に幾人かの青年をもっていた。私もその一人だった時期が相当長くつづいた。」とある。
 『抛物線』の「空に描く浮像」(p294)では、「わたしは近頃こそ隠者のやうにも引込んで街の風にあまり触れないから、ゴシツプの世界から脱落して薩張りしてきたが、或る時代にはよくゴシツプに書かれたかのやうだ」と自分から言っている。十中八九は嘘なのだが、しかしそのイメージが可笑しい。曰く美しい未亡人を連れて歌舞伎を見ていた、曰く海岸で「華やかな海水着をコバルトいろの海を背景に浮せた近代女性を唇が紫になるまで追いかけ廻はし、揚句の果てに雲母をみつけて、雲母と云ふのは薄く規則正しく剥げるものだと発見した」(これなどは格のモダン感覚と符合している。真実でなかったとしても。因みに些少の事だが、『評伝』のp102にある「クラゲ」は雲母の読み誤りでは無いか。)曰く途方もない豪遊をした、等々。しかしそれはまた格の口から出たことでもあった。
 「漫談を愛し、饒舌に耽ける」「頭の中で話の調子で、かうあればさぞ面白からうとありもしないことをうつかり話す悪癖」、それがいつの間にか格がそのまま遣った事の様にして流布しているという。その中で、どうも格自身が気に入っているらしいのが「月夜の銀座に雨を降らした」というものであり、この話は、別の小品としても書かれている。
 内容はこうだ
<或日郊外の友を訪づれた。雨、蝙蝠傘を借りて銀座へ出た。雨は途中で霽れて、銀座は月夜。
 そのとき銀座で逢つた青年に、「君この傘をさして雨がひどく降るときのやうに歩いてみたまへ」と云つて歩るかせた。すると向かうから来る人々が手を出して何だ雨は降つてはゐないのだと数ヶ所で云つたのをきいた。>
 格が傘を差して歩いた訳ではないが、いつの間にか格が差して歩いた事になっていた、という。それだけのことだが、然し青年に傘を差させたその所謂「モダン」なセンス、こういうディレッタントな風合いとそれに伴う新鮮さ、こそが格の持つ(街頭詩人時代の)魅力なのである。
 格の魅力、街頭文化人として銀座マンの代表に数えられたその魅力は、然し文章の中よりもむしろ夕暮れのバアやカフェエで若い男女(特に女の子)相手に消えた(些か虚言癖のある)雑談に有ったようだ。
 主義者としての革命的情熱は得意の座談の中に雲散霧消してしまい、結局座談と文章という形での出力が、彼の「運動」への実践性を扼殺していったのだ、と和巻氏は語る。格自身、その「雑談」で時間と体力を浪費したことを何度も反省するが、それでも彼の雑談癖が僅かなりともなりを潜めるのは昭和十四、五年の事であり、またそれに伴って彼の新鮮さは失われていく。
 彼の語り口を、格自身が「多すぎる」と毛嫌いした座談会のなかに見ることが出来た。旅行の待ち合わせにおいては必ず遅刻すると大宅壮一に言われた−「定刻に集合しないで汽車に乗りおくれることを原則としているアナーキスト新居格君」(『モダン・ドン・キホーテ』大宅壮一全集二巻)−格は、座談会でも途中入場してくる。
 東京に新たな享楽施設をと語る『享楽地漫談会』(モダン都市文学Tによる。出典は「近代生活」昭5・3月号−「近代生活」については別注)、出席者は岡田三郎、吉行エイスケ、川端康成、浅原六郎、楢崎勤、中村武羅夫、新居格、龍膽寺雄。
 当時一度目の中国旅行から帰っていた格は、中国の享楽施設について語る。

  岡田 それから阿片はどうかね。
  新居 阿片窟は禁止されているから日本には不可能だが、向うだって支那町は行かない。仏蘭西租界に行って見た。あれはうまいものだね。ちょっとやった。煙の舌触りがとてもいい。
  吉行 享楽には付物ですね。
  新居 それから裸のダンスとか、覗いてやるやつとか、あらゆるああいう種類のものはなくちゃならん。
 或いは『「暗黒街」漫談会』でもやはり遅れて登場。(モダン都市文学Vによる。出典は「近代生活」昭5・5月号)では
  新居 よっちゃん(相良嬢)の応援に来たのだ。
と発声一言目から、作家人に囲まれて静かになっているダンスホール・フロリダの売れっ子ダンサーの援護について場を盛り上げる。成る程格は話の引き出しも多く、新規話題を持ち出し、冗談を言っては座を笑わせている。因みにこの漫談会の中で浅原六郎が「文学者というものは反面では傍観者だから、その傍観者と実行者というものとは相違しているのだと。で新居格がモダン・ボーイというのは、新居格の感情なり、人格なり、思想なりがモダン・ボーイなんであって、その生活の実際がモダン・ボーイではない。新居格の手先に依って躍るものに、モダン・ボーイとか、モダン・ボーイでないものとかいろいろあろうけれども・・・」だから文学者は悪漢そのものにはなれない−という話なのだが、この頃の、新居格といえばモダン・ボーイというイメージを十分感じさせる。


■街の散歩者−『生活の錆』


 新居格は、年と共にその思索の舞台を都市、夜の銀座のカフェエやバアから高円寺界隈の散歩道、郊外の田舎道、或いは旅行先での自然等に移していく。一時はひっきりなしだった銀座漫歩が、いつの間にか昼の風呂屋通いと化していく。和巻氏の言葉を借りれば「新鮮さとそれに伴う物足りなさは消えたかわりに、哲人的な風格を帯びてくる」のである。以前が以前だけに其の影は孤独だが、その姿は決して惨めではない。
 引っ越しに次ぐ引っ越し(「居住の歴史」『心の日曜日』p149に詳しい)で、最後の高円寺の地に落ち着くまでまともに書斎らしい書斎も持たなかった格だが、それでも書斎に孤座して黙考することを何よりも大切にした。和巻氏によれば、大宅壮一は格をこう評したという

<「−街頭人としても知られているが、書斎を文化的祭壇視して、できれば一生これに奉仕したいという点ではそこらの大学教授の比ではない。毎朝一定の時間に床を出て軽い散歩をすまし、パンとミルクの軽い朝食を終え終日書斎で横文字の本を読んで暮らすというのがかれの理想である。
 ところがこの理想も現実に直面するとたちまち破綻をきたす。まず朝、一定時に床離れしようとしても、前夜の夜更かしでなかなか起きられない。−」
「やっと起きて仕事前の散歩に出ると途上で知人の文学青年らと出くわして二言三言立ち話、そして喫茶店。雑談しているうちに次々に新しい知人が現れ、新宿や銀座に出てゆくか、出なくてもいい気持ちで話しているうちに時間がたち、帰宅後、疲れて何もできなくなり、夜は別の会合が待っている、こうして一日は過ぎて理想的な書斎人ではなくて、心ならずも典型的街頭人といわれるようになり、これが習い性となってたまに書斎にこもっても根気が続かない」>(評伝 新居格」より(出典不明))

 大宅は、少なくとも昭和十二、三年目での新居格はこうだったと決めつけている。実際そうだった様だ。日記を調べられた和巻氏の言によれば、「大正の昔から昭和の戦争が烈しくなるまで、旅行や病臥のときを除いて、雑談や会合で時間をつぶした事を日記で後悔していない日はないくらいだし、年頭の決意でも毎年それを自戒している。ところがその翌日もまた同じ事をくり返しているので、「これじゃあまるで子供だ」と、筆者は日記を読んでいて、吹き出したり、微笑ましく感じたことはしばしばった。」(p87)という。格自身も「西班牙の城(ある怠けものの理想と現実)」(『街の抛物線』p144)で、その手帖に書かれた理想的生活と、日記の現実を並べてみて、どうにもならない現実に理想を諦めてしまう男を書いているが、ここで主人公にこう吐かせている。
<わたしは分を知つてゐるつもり。だから、わたしはその分に応じてあるより外はない。
 わたしは学問がない。だから、つとめて勉強をします。わたしは文才がない。わたしは文士たり能はぬ。だから、文士らしい生活は出来ない。わたしは僅かの収入しかない。それで、平凡人らしく簡素に暮らすつもりである。
 うんと書いて、うんと稼いで、うんと派手に、さうした芸当も人気もなく、又頼まれもしないから、極くわずかの仕事をして、健康を重んじた方をとる。過度には何事をもしない。
 わたしは他人の生活を乱だしたくないが、又自分の生活を乱だされたくない。>(p146)
 これは格自身の言葉であろう。他人の生活を乱したくないし、また乱されたくない。これは言わば「唯一無二の自分」ともいうべき考え方で、格の何よりも自分の能力を高めたい、勉強したいと言う、九十年代現在シフトしつつある新たなパラダイムと共通するものを見ることが出来る。学位のために学ぶのではない。学ぶことそのものを求める心。
 果たして、格は少しずつ街頭から遠ざかっていく。少なくとも作品は、既にその夜の都会の持つ輝きや艶を失い、昼間に書斎に孤座しての日々独語に移行してゆく。作風に見られる隠遁(本人は随分後になって「如何なる場合でも微塵も隠遁的ではない」と語っているが)の性格は年毎に強まり、戦中にはカナリアを友として一人生きると言った風の完全な書斎人となってゆくが、そうなるともはや「モダン」期の格とはかけ離れていく為、ここでは詳しく触れる積もりはない。

 『街の抛物線』の二年後に出された『生活の錆』は、その移行段階を映している。ただ都市のモダン層をスケッチしたきらびやかな作品から、孤座した書斎で読んだ本についての文や、或いは独りで散歩を(彼は漫歩と言った)しながら触目触感したものを綴ったものが主体となっていく。
 モダン風景と市井人としての静かな生活(サローン・アナキスト、「行動しないアナキスト」の生活)の混合度合いが最も理想的と思われるのが、随筆集『生活の錆』(岡倉書房 昭和八年二月)である。これ以降に生み出す隠遁者然とした風合いと先の街頭詩人然とした作風との間。限定七百部とあるこの集の、どれもが、瑞々しさと、枯れた感性を併せ持つ。『抛物線』に見られる賑やかさは無いが、細心の注意で描かれた掌編ばかりである。
 この集の中の「春の淡彩」で格は、嘗ては軽佻浮薄とまで言われた自分の文章が最近萎びて光沢を失ってきた、と世間に言われている事に対し、「わたしが近年ひどくぢゝ゛むさくなつたのはさうした言葉(軽佻な文章や言動に対し、いい年をして・・という批判があった。それもまた「生活の錆」である。)に打負かされてゐたからと気付き、こゝに断然と挑戦をはじめようとするわけである。」とした。
 その「挑戦」は例えば、「秋の細線」(p64)で描く
「風がさわやかになるんだが、そのさわやかさに陰影がとけ込むとさびしさと脆さが感じられる」「空気が澄んで来るので、街の灯だつてまるで美女の明眸のやうにハッキリと輝き出すことを感じ出す。頭脳を街の灯のやうに冴えさせることです。」「晴れた秋空、もしわれ/\がわれ/\の指をその中に突き込むならば染まりさうにも思へるほどに美しい瑠璃色である。」
 といった如何にも、な繊細な感覚に見ることが出来る。都会風景を切り離したモダン感覚。この様な秋の描写は格の好んでしたものであり、『街の抛物線』の「モダン徒然草」には、夕暮れの街、秋になりますます澄んでいく空気、全ての線がくっきりとやせだして、隠されていた細線までが浮き出す。街のビルヂングの美しさはその「線」に宿るのだ−といった内容のものを書いている。しかしそちらの方は、より「街」との繋がりが深い。格はモダン文学と都市生活の関係を「所謂モダン派文学の殆どは今のところ都会文学」(「現代芸術の都会性」『アナキズム芸術論』)と認めている。それを客観視し得た上で、彼の感性は都会以外の場所にも「細線」を見出し、枯れた光景に都会的な視点を与えた。
 「散歩者の言葉」(p104)では、銀座も、嘗てのけばけばしさを消し、「何と云ふこともなく at home」なのである。「排他的な空気は微塵もない」「何もかもが沸いて出る即興によつてプログラムが編まれてゆくのである」。この作品では、銀座は絵に描いたような明るいプロムナードである。闇に浮かぶきらびやかさではない。格の意識は確実に変化してきている。
 「断層」(p158)の中では、「元来喫茶店なぞでコーヒーを飲みながら喋ることが一つの楽しみだつた」が、今は疲れやすくて駄目だと言う。「夏の夜の街の灯に親しんで、当世風の会話を聴くよりも」、一日の午前中を有意義に過ごせることの方が幸せだ、というその言葉の裏には、当然そういう風には行かない生活が見える。
 表題作である「生活の錆」(p161)で、格は彼の立場から若者に向けて語る。ありきたりの事ではあるが、例えば人は見栄をはるものだ「誰にも見せない日記でさへも人は決してほんたうの事を書かないものだ。」だから正直に生きよ、勉強せよ、尊敬の念を持て、いや、それよりも「生活を錆付かせないことだ。因襲は全く空気のやうに忍び込み、水のやうに沁みるからだ」「生活を磨くこと、それは絶えざる苦闘である。」と言う。即ち、「生活の錆」とは「因襲」を指す。他人に対しては、因襲の無い事を最も望んだ格が好んで使った言葉である。


■市井人格、それ以降−『野雀は語る』『街の哲学』『新しき倫理』『心の日曜日』他

 格をモダニストの尖端と決めつけて論じたこの論も、その終わりが見えてきた。後期の文集『野雀は語る』『街の哲学』『新しき倫理』『心の日曜日』等で見られる格は、ただ生活をし、旅行をし、病で弱りゆく身体を気遣い、戦争の気配によって暗くなっていく世を見て、そこに嘗ての輝きを重ね、それでも国家の体制を無批判に受け入れ(ただし、役人の不正や非効率的な行為は糾弾するが)賛同し、自分は庭の草花をいじり、全く隠遁者と化してしまう。随筆集のタイトルを「カナリアを友として」というタイトルにしようか、あるいは「反省の結晶」とでもしようかと思う、等と言うこの頃の著作を読むと、戦後区長として輝いたのは一体どういう事であったのか、不思議にもなる。
 それでも嘗ての輝きを見る、例えば「過ぎし日の点景」(『野雀は語る』p204)などは、モダン都市の残像という感覚で美しい。
 「書斎がわびしくなると、わたしは漫然と街に出かける習癖がある」街を、人を眺める楽しみ。映画も。路上を行く実際の人々を、映画のように眺める。夕暮れのバアの風景。S氏がK夫人をつれて入ってくる。三人で晩餐を共に。本の話、女性の話、街頭人格のお喋り。K夫人は「今夜はほんとにメモリアル・ナイトよ」と言う。登美子がトミイ、笑子がエミイと言っていた頃・・・「しかしその頃の女の子なんて可笑しなものだつた。」十分程トミイと話しただけで彼女は「あたしね、この間、Aとコロンバンで遊んでやつたの」と言いふらしたという・・・−しかしそんな点景ももう昔のことで「今はないことを附記して置かう。」
 或いは、愛したダンスホールが閉鎖され、そのラスト・ダンスを見に行った格が聴く「蛍の光」は卒業式みたいだが、本当は"Auld Lang Syne"="Old long since"、今は懐かし、其の昔、と言う曲なのだ、今の気分に相応しいという格。
 この後に続くのは、西照寺の境内に借家住まいする老人の、書斎で孤座して、新体制の今、自分はどうすべきか、と「壺中語」する日々である。現実の格がどうであったかは今となっては解らないが。
 然し、歳を取ったから独語が多くなった、惨めだ、と思うのは間違いなのであろう。格のスタンスの中では文筆はあくまで余技の一部なのだ。大体、元来この文筆家(としての格)はモダン都市風景スケッチ家であると共に、自分のその時の「心境」「心象風景」を延々と語り続ける述懐家でもある。同じ評論家でも大宅壮一が自分のことを語る事が殆ど無かったとされるのとは好対照である。『街の抛物線』の中でさえ、「自画像を描く」と題した作品には、運動家として実際運動に関われない、実行力の無い自分を描き、しかし今は差し当たりそうであるしかないのだと吐く。
「それに何の他奇もなく、尋常で平凡で、怠けもので才能に乏しいので、地味で、身辺孤寂であるにも拘はらず、世間の承認の原理はとても強力で、与太で、賑やかで、でたらめで、時代の波の尖端に行くお先走りで、と云ふ風にでつちあげられてゐるらしい。怠け者であることだけが事実相違これなくだがその外のことは押し並べて反対であるのだ。」「一言で云ふ、取り柄なきもの汝の名は格である。」
 一見最も賑やかな感じを受けるこの時期に格は、生きるために駄文を書き散らし、思ったように勉強は出来ず、来客に閉口し、貧乏でつらい、と云った事を延々と述べる。自分は臆病で意気地なしで晩学で無学で語学力に欠けている・・・日記ならば兎も角、余りに卑下が過ぎるきらいがあるが、恐らく自身をそのように冷静に見つめていたのであろう。
 だんだん静かになっていく環境を、むしろ喜び、超然と孤独を楽しむようになる格。「あるより以外にはあり得ない」。時代もまた、そうであった。様々なノイズ−言論弾圧等の下で「主義者」格の話せることも少なくなっていたのであろう。今読めばちくちくとそれらしい事を言ってはいるが。「今はさうだが、国防国家体制が国家究極の目的でないこと」情報統制に「隠された実相を聞知するために、わざ/\貴重な時間を割かうとは考えない」等々。この頃、戦争そのものには反対はしていない。いつかは過ぎ去る、自然災害の如き扱いである。
 自分を「散人」(無用の人物)と捉え、当時の座右の銘は「野雀糧無し、天地寛し」。
 『街の哲学』ではそれでもまだ女性の事を語っていたりはしているが−例えば「ブロークン・ガァール」(p140)の、母親の時代じみたコートを来て下駄履きの明るい少女が、「まだダンスが女達にも許されてゐる事変前のクリスマス前夜」に、白のイヴニングドレスで現れる−そういう少女の姿を描いてみたり、「在るべき女」(p152)と題して理想女性を語ったりするが、最早其処には嘗ての軽妙な語り口は見えないのである。


■『大地』著作権裁判

 著作リストを見ていただければ判ると思うが、格の出版物の多くは、翻訳物で占められている。 現在手に入る『大地』も翻訳である。和巻氏によれば、新居格の翻訳の、かなりの物が代訳であると云う。 当時の翻訳については、翻訳工場で有名な大宅壮一の「一切万事職業化時代」(全集第二巻p291)によれば 「大家(ことに文壇的)の翻訳は原則として信用すべからざること」として、いかに多くの代訳が翻訳界に 跳梁しているかという事実を語っている。そして気を付ける点として、「有名者と無名者と共訳になっている場合は 前の場合のやや良心的な変種であって、有名者のほうを全然度外視して吟味すべきこと。」としている。 果たして現在唯一入手可能である所の「大地」はどうであったのか。 事実は、やはりと言うべきか、格が名前を貸した形であったようである。
 そもそも格がこの作品の翻訳に着手した次第は、著者自身と出会ったことからであった。
 「世界を隈なく放浪して歩くことが、私の嘗ての夢であり、願ひであつた。だが、運命と機会がわたしをさうさせなかつた。」 (「在るがまゝに」『野雀は語る』p78 従兄弟の賀川豊彦が又してもアメリカに行っているのを見てそう言う。)
 海外旅行を終生の念願としながらも果たせなかった格も、しかし当時は日本領であった台湾と朝鮮への旅行はしており、 さらに昭和四年と九年の二回、一月余りの中国旅行も行っている。内山完三と親しく交わり、内山を通じて魯迅を筆頭とする 中国の作家達を知ったという(魯迅からは書(詩)を贈られている→「無題」)。 『街の抛物線』によれば、一度目の渡中(講演旅行)では、満鉄で蒙古の広さに酔ったが、排日気分の強い地方では匪賊に怯え、 夜の闇を決しで城門まで駆けたり、支那兵士に囲まれたりとなかなか大変な目にあったようだ。
 そしてその二度目の渡中で、パール・バックに紹介された。格は既に「THE GOOD EARTH」を読んでおり、 感銘を受けていた。その紹介を機に翻訳許可を貰い、果たして翻訳を始めたのである。そこである事件が起こった。
 当時新居格の書斎は狭いながらも来客の多いサロンであった。そこで翻訳権を得たという話をしたところ、 深沢正策という人物が、生活に困っているのでその代訳をやらせてくれと言ってくる。 貧乏の味は誰よりも知っていた格は、印税折半という条件で、仕事を深沢に任せた。 半年ほどで翻訳作業は終わり、中央公論に持ち込んで断られた後、第一書房で出版が決まった。 赤字だったという。それでも約束通り印税は折半した。
 それが、二年後の支那事変による中国への注目、さらにその秋に公開されたMGM映画「大地」の大ヒットがきっかけで、 普及版は売れに売れた。しかし深沢はその印税を一円も格には渡さなかったという。 格はしかし「普及版だから印税は入らないに違いない」と勝手に決め込んでいたので契約履行を迫らなかった。 その事がばれたのは、深沢が昭和十四年三月末に格を著作権侵害で訴えた為であった。
 深沢は「大地」の翻訳の名義を自分にしてくれと第一書房へ申し込み、拒否されていたのである。 どうしても名声が欲しかったのであろう。だが如何せん深沢の方が圧倒的に分が悪く、 結局は藪をつついて蛇を出した訳で、格は一時的にしろ、金銭的に潤うことになった。 これがその後格に一寸した女性問題を起こさせるが、彼の枯れた人生の中で、唯一彩られた時期でもあったようである。
 格自身の手による翻訳も当然多いが、『我国土我国民』(林語堂)などは 翻訳作業中の苦労話を随筆に書いていたりするので、特定はある程度可能かと思われる。


■『区長日誌』

(以下は、もはや「モダン」とは時代も、新居格のスタンスそのものも変わってしまっているので本来なら除外すべき所であるが、格の伝記の体を為してきてしまった為、どうしても外すわけには行かない。)
 彼は、その人生の終盤に置いて、今まで市井人、野雀と語っていた立場を大きく変える事に成る。
「むかしは観照することがわたしの世界だった。しかし今は行為の人となっている。」(『区長日誌』p26)
 それが「戦後初の文人区長」である。まさに「ドン・キホーテ」格の面目約如の一瞬。彼を実行の人にしたのは、戦時中の伊豆長岡への疎開と、それに伴う断筆が大きな要因を占めている様だ。新居好子の「父を語る」(『遺稿新居格杉並区長日記』)によれば、戦時下の東京を避けてその疎開先の寺で「晴耕雨読の、最も父の好みの生活をしていた。」と言う。恐らくは読んでばかり居たのだろうが、兎も角ここでの、邪魔の無い集中しきった勉強の結果が、新居格を実践者として為したのであろう。新たな時代に求められた、本当の文人区長、が誕生する。
 勿論自発ではなく、しかし出馬すれば当選確実(当時の高円寺は有識無産階級の集まる街だった。)な新居格を、周りがかつぎ上げたのである。頼まれると嫌とは言えないのであった。選挙活動は焼け跡での演説が主で、「父を語る」によれば「講演料のない文芸講演みたい」だったそうだ。
 しかし、と言うべきか、目先の事で手一杯の時期に、百年の長計を見る格は、当然の如く実際の「役所」とは全くソリが合わず、そして何より健康の悪化、肝臓疾患があり、一年後の昭和二三年−1947年には辞職する事になる。以下『区長日誌』から引用。
 「世界の杉並区」(p123)の中で、理想家と言うよりはむしろ夢想家とも言える彼は、杉並をを日本のワイマールに!二世紀後の杉並区民が驚くような都市計画をと、「よき図書館、上品なダンスホール、高級な上演目録輪もつ劇場」等々の有る「未来」を(戦後の困窮の極みの杉並区に)重ねる。沿線と駅付近には広場と大通りを・・・果樹園や牧場も作って、蠅も蚤も蚊もいない土地を・・・。「お手軽さ、間に合せ、それはまさに文化の敵」(p125)。全く、である、が。
 夢想し、そして、失望する。「理想」とは程遠い因襲に縛られた役所や「民度の低い」住民に失望して「今のわたしを牽引するものとてない。」(p96)と感じるに至る。
区長になった四ヶ月頃には「わたしは人間は誰も面白」い、と言い、「わたしの事務の机は常に街頭に進出し」ている、何処でも質問を受ける、とまで言っていた彼が、住民の所かまわぬ、或いは強訴の如き陳情に疲れ果てていく姿は、しかし彼の「世間知らず」ユートピアン性を図らずも見せる。「演説にしばしば波長の違うこと」(p184)では、議員に「区長は徒に理想主義者にして、現実を知らず」と糾弾され、格は「理想のうちに現実は投影し」と反論する。議会の場で「現実の認識如何が問題になる」。挙げ句「禅問答、こんにゃく問答」と陰口をたたかれる。
 格はその短い区長時代、接待に、辞令に、訓辞に、全ての不条理な(と思われる)「仕来り」に、条理主義を持って抵抗する。「わたしは条理主義のヨハネとならねばならない」(p103)。区民に近い市長として、受付の隣に区長の席を作ると宣言したり、区議会の日付をラジオで放送して傍聴者を増やそうとして「あけっ放しで困る」と吏員に言われてみたり、酒席になるのが仕来りの引継の席に餅菓子二ヶだけ出して白けさせてみたり、出された料理を断って手弁当を出してきたり、いちいち奇を衒っている訳ではないが、そういう格に助役は「どうお仕えしてよいのやら」と云う。その「お仕え」という言い方がそもそも・・と、切りがない。結局、格はその在職一年の間に、区議達と一度だって酒食を共にしたことはなかった」と言う。
 先日1/9(1997)の天声人語を見てああ、と思った。そこには、長野県の芽野市が、『陳情』という言葉はもはや相応しくない、市への「陳情」は、今後は「要望」に変更していただきたい、というお願い、が出されたという内容の事が書かれて合った。天声人語の筆者は「ことばだけ変えても、内容が旧態依然では実効はあがるまい」という意見もあろうが「ことばが変われば、「お上」の姿勢が変わる可能性もないとは言えまい」と言っている。これを見て思い出すのが、格のしつこいまでの言葉へのこだわりである。誤用を、それで良しとして正しい言葉に直そうともしない、その「因襲」性を格は嫌った。例えば「逐鹿とか出馬とかいう」いわゆる選挙の出馬についても、故事を引きながら、しかし人間のする事に馬とか鹿とかいうのはいかがなものか、などと言う。
 「形式に悩されること」(p142)の中で「嘆き願う書とは」として、「嘆願書」という表現を取り、「民主政治において嘆き願う書という表現はどうも」「些事のようだけれど」、そう言うことが民主政治の上では大切なのだと言っている。「陳情」についても触れているが、ただしこれは「お上」としての立場から「陳情」は強訴とは違う、示威行動のような住民達の押し掛けに閉口する格が、陳情とは実情を陳べることであって、示威行動の場ではないのに、と不満を言っているのであるが。観照するだけならどんな人間も愛嬌のあるものだと言っていられたが、ここで格は明らか市民に失望している。
 失望するのは市民にだけではない。全ての事大主義にも怒りを覚える。「小学校の先生より中学校の先生が一段上」高校より大学の教師の方が上−或いは地方議員より国会議員のほうが偉いといった事大主義。ボス性こそが彼を苛立たせた。「いと小さきものに奉仕」することの大切さを知れ。自治体議員はその尊厳性を忘れてはならない。「国会議員になりたければひたすらに、直路にそのコースをとればよいので、自治体を踏台にするが如きは卑怯である。」挙げ句演説で事大主義者達をホッテントット呼ばわりして、此は議員の反感を大いに買ったようである。ただし、ホッテントットの意味を理解したものはいなかったと言うが。
 結局、格の求める「市民生活」は夢でしか無かったのか。理想とする市民社会、そこに自分を置くことを夢見続けてきた格は、辞任後の覚え書きに「政治的蜃気楼」と題して、「わたしは形容詞のない人間(ノンタイトルド・マン、とルビ)であることが理想」であり、あくまで一市民でありたかった。ただ、その市民、というのも「結局はユートピアの市民か、物語にあるような」ものだったのだ、と述懐している。それでも出馬したのは、そういったエゴの露出した、道義の低下した「今の世の中が堪えきれなくなった」からだった。「時代の所為であるというの他はない」。そして、ユートピアに幻滅した。
 辞めたときの周りの反応を格は記録している。単に辞めただけのことだが、世間はとやかく言うのだ。曰く「いいタイミングでやめた。体臭に区長の匂いがつく前に」「気まぐれでいかん」「お茶目だわよ」「文化人の敗北になるのだから、頑張らなくては駄目」・・・格は言う「そんなことを考えるより、窓外の青葉に目をやって、植物の思想でも思い浮かべることが、はるかに気が利いている。」(p262)。ここで、格はやっと「わたしらしい心」を取り戻すのであった。
 ノンタイトルドマン(各種「理事」はあるものの)新居格は、残りの数年を療養と読書、翻訳、論文、随筆という、それまで同様のスタイルで過ごした後、昭和二十六年十一月十五日、孫を連れて散歩に出て直ぐ、異常を感じて帰宅。主治医の検診を受けたが瀉血の後意識不明になった。枕元には賀川豊彦と天羽英二が来た。昏睡のまま他界。六十三歳であった。


■現在の評価について

 『評伝 新居格』の冒頭、「格は注目に値する著作を残しているが、そのわりに評価されていないのはなぜか。それを追求するのが、この評伝の眼目になるだろう」という和巻氏。それに対する氏の結論はその冒頭にある「肩書きの多さ故の忘却」がそれであろうと思われる。その後その「眼目」には明確には触れていない。しかし、確かにその疑問はつきまとう。何故か。
 多数ある肩書きの、その中でも「文士」でだけはあり得ないとしている格。大正十四年正月二日の日記にはこうあるという。
「−僕の位置・・・と言うのも変だが立場だ・・・は社会思想家である。文士は嫌だ。将来、詩を書こうが、創作を書こうが何をしようが余技だ。この点は十分注意しなければならぬ。」
此は、格のその後の活動を見事に説明している。はっきりした守備範囲を持たない、というか守備範囲の広い活動が、結局後の世に「社会思想家」として記録され、やがてその名前を忘れさせしめた。こういう展開をしかし生前の格は予感していたに違いない。
 自分を表すのに彼自身が好んで用いたのものの中には、「ドン・キホーテ」「野雀」そして「タウゲニッヒ」という言葉があり、最後の「タウゲニッヒ」というのがこの場合、近い。彼自身の説明では、それは「何にも適しない、何にも出来ないといふ意味で、わたしのためにつくられたやうな言葉」だという事だ。まとまった活動が無くては、まとまった再評価も難しい。娘は言う。「お父さんは自分の行くべき道を真直ぐに行かないで、道草ばかり食つてるわ」(「街の漫歩」『街の哲学』)
 黒色戦線社、が1988年に「アナキズム芸術論」を復刻したりしている事から見るに、少なくとも、アナキストとしての格はここ数年で再評価されていた様である。だが現在流行り(それが有意味かどうかは疑う向きも有ろうが)の「モダン(都市)文学」再発見の中で、既に全集のある龍膽寺、近年傑作集が出された吉行らと、似た位置づけであるにも拘わらず、新居格は並び評価されてはいない。少なくとも彼ら『近代生活』同人の中で、格のモダニストぶりに遜色が有るとは思えない。
 結局、新居格は文士では無かった、というのが理由なのだ。創作はあくまで余技であるとした彼のスタイルが、作品の評価を決定しているのだ。誰かが(例えば「モダン都市文学」シリーズが)取り上げなければ、本当に忘れ去られるままで有ろう。私も知らないままだったに違いない。だが、新居格という人間は、「モダン都市文学」が描いた時代に、重要なキャラクターとして有った。せめてそれを忘れないでいたい。
 ではこれから新居格の作品が再評価されうるか、だが、彼自身がその半ばで出した自選集の言葉を引くと
「これがわたしの「生活を映した文章」である。わたしの生活が形をなしてゐないやうに、わたしの文章も体を成してゐないのではないかと恐れる。
 一体私の生活とは何であるか。それを自省する時、わたしは余りにもそれが纏まりも無く、且つ無価値なのに驚くより外はない。(中略)
 わたしは筆を執つては来た。これからも筆を執って行くであらう。わたしの執筆は生活のためであつた。その生活も高邁なる精神に刺激されたのではなく、卑近な生活の事実に引きずられての執筆であった。」
 或いは「市井人の独語」(『野雀は語る』冒頭)では、随筆集を出そうとして原稿を整理しれみたが、「かなり、多方面に何だかだと描いてはゐるが、一時的のものが多くて閉口した。」という。
 つまり、売文の為に書き散らした、その場限りの言葉の連なりが格の作品の全てであり、時代が過ぎ去るに伴ってその価値もまた無価値化してしまったと言う事だ。
 その後年の、思索に耽る頃の作品は艶を失い、かなり枯れた老人独語に移っていく。それでも単行本は次々と重ねられたのだから当時は読者が付いていたのであろう。だが現在では流石にそれは受け入れられまい。だが『街の抛物線』なら、と思う。
 私は、何故格がもっと「小説」の類を書こうとしなかったのか、それを悔しく思う。本人はあくまで余技だと考えていた節があるが、しかし彼の随筆は、随筆のはずが、直ぐに筆が滑って彼一流の幻想の世界に飛んでゆき、ひどいものでは途中から妄想の中の「理想的な」登場人物達が全員踊り出すまでに至る。にも関わらず、格は本質的には虚構のドラマを書くことは無くなっていった。書いていても、途中で夢から覚めてしまう。老いも有ったろうが、プロレとしては遊興に興じるモダニストを演じることに引け目があったのかも知れない。
 彼の手による唯一と言って良い小説「ニゲラ」は、妻子有る主義者が理解のない妻を捨て、「新しい女性」と大陸へ渡る所で終わるが、モダン文学と言うよりはむしろアナキズム啓蒙小説である。きらびやかな筆致はなりを潜め、ただただ「主義者の男と新しい女性」の展開が進むのみ、と言った物語主体の作品には、モダニストとしての格の魅力は無い。彼の魅力はその細部の表現にある。モダンの神は細部に宿るのだ。因みに、格の小説の類で一番「筋」らしいものがあるのがこの「主義者と女性」というタイプの物語である。何作か読んだが、「強い意志と烈しい熱情が女にではなく社会にたいしてであつたと思ったのは誤りで、社会にではなくやつぱり女のためであつた」(P65)と言った、「運動家」としての男が社会に対して燃やす情熱と、独りの女に対して燃やすそれでは結局後者が勝るのだ、というのがそのステロタイプである(然しプロ(レタリア)派として書く場合は、これが、女のブルジョア性に幻滅して、青年は本当の情熱をぶつける相手を社会に見つけるという話になるのだからいい加減でもある)。
 小説めいたものを書いても、大抵は最後に「そういう事を小説にしようかと思う」「こんな妄想をしてはいけないのだろうか」と、「妄想する格」の言葉が出てくる。ディレッタントさを失っていくと共に、最後の言い訳めいたものを付け加え出す。これは小説ではない、と言うことか。
 「街頭文化人」時代に置いて、その鋭い審美感覚を完全な虚構の中に封じ込めることが無かった、と言う事こそが、その後の外のモダニズム作家と(街頭文化人時代の)格との扱いの違いに出ているとも言えよう。龍膽寺雄の見るモダン都市風景がその幻想的な物語の背景として見事に機能しているのに対し、新居格の風景は、風景そのもの、素材そのものでしかない。
 その上、致命的なことに、格のモダニズムはあくまで「近代明色」であった。軽い関係、他人を侵さず、我も又侵されず、向未来性の明るさが有った。それが格の魅力の所以でもあるが。都会性には当然の「暗黒面」は語られない。語らない、と言うべきか、その存在を唾棄するべきものとして扱わなかった。その初期から、カフェエの下品な女給達を、或いは履き違えた「モガ」達を
「何れにせよ一時期の創作のある範囲(それは極めて狭く且つ極めて短いにしろ)だけには影を落とす女性の形態ではある」「多少の影を創作にも反映するであろうことだけはたしかである。」「その一時期の時世化粧を残すものでもあらう」(「文芸と時代感覚」『季節の登場者』p79)
と、その有意味性を認めてはいるが、好意的に、意識的に描くことは無かったようである。批判はしない(どんなものでも何かしら意味があるというのは格の持論)が賞賛や歓迎はしかねる。
 彼の理想とするのはあくまでも新しい美、健全さと速度であり、機械的で理知的な「心を濡らす」ことの無い明るい美であった。だが、モダン期、1920-30年代の所謂モダン文学の嗜好は、やはり「エロ・グロ・ナンセンス」であり、その中で生まれた「闇」は時代を通じて今も高い評価を受けている。都会に新しく生まれた闇を描いた作品は、その幻想性で読者を虜にするが、格の描く「近代明色」に包まれた1930年代の光景は、現在のそれと基本的には地続きである。感覚の異化効力が(今となっては)薄い。「初物」喰いの結果である。熟す前に使ってしまい、熟した頃にはもう古くさく感じてしまう。それ故に「時世化粧」、異世界性が薄く「時代」の匂いが薄い。現在振り返られる「モダニズム」とはズレを生じる。
 結果、その作品は一部を除いて(未だ)再評価され得ないのである、と考える。勿論、「社会評論家」としての新居格は、新興芸術の持つ感覚を愛し、そして批評しこそすれ、その作家の中に本格的に関わるつもりは無かったのだ。だが、ここでは敢えて「文士」としての再評価を考えた。
 新居格は、或いはこれから全体像として再評価され得るかも知れない。『評伝』の「あとがき」によれば、新居格の遺族は、現在末娘の元田美智子さんのみであると言うが、夫君の元田茂雄北大名誉教授が整理を行っているようなことを書いており、一抹の希望はある。
 また、最近はその勢いを失いつつある海野弘等のモダン文学の再発見、復刊が続けば、その網には必ず『街の抛物線』位はかかるであろう。
 それを期待しつつ、この論を終える。



新居格略年表(「評伝 新居格」巻末年譜による。単行本は除外)

 明治二十一年(一八八八)一歳
三月九日、徳島県鳴門市大津町大幸に医者の父譲、母キヨの次男としてうまれる。長男は幼逝。姉フミ、弟厚、次女ムメ、三女ヒデ、四女テル、従弟に賀川豊彦がいた。格は弟、姉妹とは別に四キロ離れた村で祖父母に育てられた。
 明治三十三年(一九〇〇)十二歳
徳島中学入学。「二年のとき社会主義思想にのめりこむ」と後年しるす。四年のとき大町桂月の一節「わが千行の血の涙」と題する演説をし停学となり一年原級。一年上に賀川が、同級には生涯の友天羽英字がいた。
 明治三十六年(一九〇三)十五歳
三月、大阪勧業博覧会見学を兼ねて近畿地方へ修学旅行。
 明治三十八年(一九〇五)十七歳
徳島県撫養群大字黒崎九十九番地、江富叶蔵三女トクと婚姻、入籍。トクは明治二十生れ。この頃雑誌に「社会の個人に及ぼす影響」と題して投稿。
 明治三十九年(一九〇六)十八歳
美代子生(注・長女であるが幼逝のため好子を長女とする。)徳島中学を卒業し、鹿児島の第七高等学校に入学。
 明治四十年(一九〇七)十九歳
長女好子生。
 明治四十一年(一九〇八)二十歳
美代子没
 明治四十年(一九一〇)二十二歳
長男俊一生。九月、東京帝国大学法学部政治科に合格。同級に河合栄次郎、同じ頃文科に第二次「新思潮」を創刊した谷崎潤一郎(四十一年入学)和辻哲朗(四十三年入学)。
 明治四十四年(一九一一)二十三歳
二月十九日、父譲没。
 大正三年(一九一四)二十六歳
次女多美子生。
 大正四年(一九一五)二十七歳
七月、大学を卒業。政治学部の小野塚喜平次教授の紹介で読売新聞社に籍をおく。
 大正五年(一九一六)二十八歳
三女美智子生。
 大正六年(一九一七)二十九歳
この頃「読売」を辞め、吉野作造の紹介で大阪毎日新聞社に籍をおく。社説などに執筆。文芸同人誌『これから』を宮嶋資夫等と発刊。
 大正八年(一九一九)三十一歳
この頃東京に戻り東洋経済新報社に籍をおく。神楽坂に住む。
 大正九年(一九二〇)三十二歳
この頃東京朝日新聞に山形・群馬版外勤として勤務。「サッコ・ヴァンセッティ事件」の抗議集会で石河三四郎他と検挙される。
「新潮」7「小川未明氏の社会思想−『幻影と群衆』及び最近の感想を読みて−」。
 大正十年(一九二一)三十三歳
『左傾思潮』(未確認)
 大正十一年(一九二二)三十四歳
「週刊朝日」い五回にわたり、「鼠小僧次郎吉」を幡恒春の画で連載。この頃、学芸部に移る。
 大正十二年(一九二三)三十五歳
平沢計七の追悼会に出席。大杉栄の葬儀に参加。年末に「朝日」を辞める。牛込若松町に転居。
「明星」2(レオ・マアチスの「労働露国演劇観」)以後大正末まで評論、戯曲、翻訳、小説、小品を第二次「明星」に発表。
 大正十三年(一九二四)三十六歳
鹿児島の母校で講演。報知にいた野村胡堂や、三菱合資会社の松岡均平に就職を依頼。高円寺に転居。
 大正十四年(一九二五)三十七歳
大正十年に創立された文化学院の常勤講師(社会思想史)となる。院長は西村伊作、学監は与謝野晶子・寛、美術に石井柏亭、音楽・舞踊に山田耕筰ほか。長女好子も同時入学。「明星」5(小説「ニゲラ」の連載開始)『文芸批評』を宮崎、高群  
 大正十五年(一九二六)三十八歳
「文芸市場」、「文芸時代」に評論等発表。
 昭和二年(一九二七)三十九歳
「新潮」九月号より「社会時評」を四年末まで連載、社会思想家として合評会に参加。「文芸公論」「辻潤君と巴里」、「新潮」6(「谷崎潤一郎氏の芸術」)「新潮」9(「芥川の死」他)
 昭和三年(一九二八)四十歳
七月、函館で開かれた文芸思想講演会に中村武羅夫、岡田三郎等と参加。
「北極星」7(「無政府主義文献紹介」)
 昭和四年(一九二九)四十一歳
上海、大連に旅行する。
創刊された『文学時代』に七月までほぼ毎号執筆。三年から四年にかけての翻訳。カイゼル「地獄・道・大地」、エリッヒ・ミュザム「ユダ」(共訳)、エミイル・ヴェルハアレン「曙」(平凡社「新興文学全集」)、ジャック・ロンドン「奇体の破片」、チャペック兄弟「虫の生活」(新潮社「世界文学全集」)
「思想」6(『セメント』を読む」)


 昭和九年(一九三四)四十六歳
上海、香港。広州へ旅行。上海で内山書店を訪ねる。魯迅に書を贈られる。田辺茂一編集「行動」の座談会に参加。
 昭和十年(一九三五)四十七歳
一月、三週間台湾に講演旅行、林語堂を訪ねる。
三月、与謝野鉄幹(寛)の葬儀に出席、弔辞を述べる。受付に長女好子。
 昭和十一年(一九三六)四十八歳
「読売」紙上で朔太郎に「公開質問状」、菊岡久利の詩集「貧時交」に序文。
 昭和十二年(一九三七)四十九歳
京都、大阪、神戸を経て徳島へ帰省。
 昭和十三年(一九三八)五十歳
十年代は映画への執筆も盛んになる。
「支那映画話」、「映画批評について」、「映画随筆」、「場末の映画館にて」、「映画に動く時代性」、「試写室で会う人々」、「映画と文学者」(一)〜(三)、「『罪と罰』を見る」、「特選映画批評『我等の仲間』」、「ニュウス映画の効用性」、「日本映画の当為」、「『モダンタイムズ』を見る」、「映画俳優如是我観」、「−風とともに去りぬ−近年最高の収穫」、「映画の感性派」、「『映画奨励法』私見」、「映画人の印象−川喜多長政」、「映画法の意図」。
 昭和十四年(一九三九)五十一歳
パールバック『大地』の翻訳に関して著作権侵害で訴えられる。弁護士山崎今朝弥と共に対応する。
 昭和十六年(一九四一)五十三歳
十二月六日、母キヨ没。
 昭和十八年(一九四三)五十五歳
執筆を断ち、伊豆長岡宗光寺で暮らす。
 昭和十九年(一九四四)五十六歳
長男俊一、ビルマで戦死。

戦後

 昭和二十二年(一九四七)五十九歳
杉並区長選へ立候補、初代公選区長として当選、四月十二日付で内閣総理大臣吉田茂署名の地方事務官叙二級をうける。講演を伊豆大仁でする。
 昭和二十三年(一九四八)六十歳
四月、区長の辞表を提出する。八月、徳島へ帰郷する。十月、鹿児島、十二月、甲府へ旅行。日本ペンクラブ幹事、日本ユネスコ協会理事として執筆、座談会、講演を行なう。
 昭和二十四年(一九四九)六十一歳
唐津、佐賀、岡山、萩、防府、下関、鴨川などへ夏期大学講師、座談会ゲストなどに招かれる。金沢で、泉鏡花、徳田秋声の碑を見る。
 昭和二十五年(一九五〇)六十二歳
一月、生活協同組合の理事長を辞す。
 昭和二十六年(一九五一)六十三歳
愛知大学文学部長、秋葉隆より「現代文学論」の講義を依頼される。
十一月十五日、脳溢血により死去。

 昭和二十八年(一九五三)
新潮文庫版『大地』の発売開始。
 昭和五十三年
妻トク死去、九十一歳。



新居 格著作物リスト(<『日本著者名総目録 27/44』・『日本著者名総目録 48/76』・日外アソシエーツ>による。1927以前、44〜48年は『評伝 新居格』巻末著書目録によった。)
◇:新居格著作
◆:新居格著作・徳島県立図書館蔵
○:新居格翻訳
●:新居格翻訳・徳島県立図書館蔵


◇左傾思潮 1921
◆月夜の喫煙 新居格著 解放社 解放群書(1) 1926

◆季節の登場者 新居格著 人文会 1927 237p (日本エッセイ叢書) 1.20円
◇社会問題講座 附録 科外講話・雑録・図表 新潮社編 1927 (「6.メーデーの歴史と社会的意義」他)
◇社会問題講座 第1巻 社会思想篇 新潮社編 1927 (「アナーキズム」他)
○世界大思想全集 第35巻 春秋社、松柏館 1927-35? <無政府主義思想史(ネツトラウ著、新居格訳) 他>
○世界文学全集 第38巻 新潮社 1927-30?<内容:新興文学全集(昇曙夢、米川正夫、北村喜八、本田満津二、新居格、他訳)>
○クロポトキン全集 第9巻 春陽堂発行 1928-31? <内容:ロシヤ文学・その理想と現実(新居格訳)>
○新興文学全集 第14巻 米国篇 第2 平凡社 1928-30?(翻訳)
○新興文学全集 第18巻 独逸篇 第1 平凡社 1928-30?(翻訳)
○新興文学全集 第19巻 独逸篇 第2 平凡社 1928-30?(翻訳)
○新居格傑作集 新居格著 解放社 1928 234p (宣伝書用) 0.50円 
◇近代明色 新居格著 中央公論社 1929 334p 0.80円
◇アナキズム芸術論 新居格著 天人社 1930 176p (新芸術システム) 0.50円
◇風に流れる 新居格著 新時代社 1930 347p 1.20円
●四〇年 ゴルキー作、新居格訳 天人社 1930 818p 1.20円
◆ジプシーの明暗 新居格著 万里閣 1930 336p (悪の華文庫) 1.50円
○資本主義?社会主義?共産主義? 新居格訳 天人社 1930 123p 0.30円
○熱風 マロウ作、新居格著 先進社 1930 365p 1.70円

◆街の抛物線 新居格著 尖端社 1931 369p 1.30円

◇支那文化を中心に 評論随筆か協会編 大阪屋号 1931 400p 1.80円 <内容:泰山(徳富蘇峰) 西湖と太湖(成瀬無極) 上海交響楽(新居格) 他22編>
○民国大動乱−熱風 マロウ作、新居格訳 先進社 1931 365p 1.70円
○グランドホテル バウム作、新居格訳 創建社 1932 511p 1.20円
◇小辞典全集 新居格、木村毅監修 1934 <四回配本> <内容:国民百科新語辞典>
◆女性点描 新居格著 南光社 1934 412p 1.50円
●大地 パアル・バック著、新居格訳 第一書房 1935 363p 1.50円
◆月夜の喫煙 新居格著 不二屋書房 1935 235p 1.30円
◇情熱の妖花 クレオパトラ 新居格著 新潮社 1936 349p 1.40円
◆生活の窓ひらく 新居格著 第一書房 1936 479p 1.50円
○分裂せる家 パアル・バック著、新居格訳 第一書房 1936 417p 1.50円
○真相ソ聯 ディミトリーヴナ著、新居格訳 豊文書院 1937 325p 1.50円
●大地 第3部 新居格著 第一書房 1937 (パアルバック代表選集) <三回配本>  <内容:分裂せる家>
○パアルバック代表選集 第一書房 1937 <一回配本> <内容:大地 一(新居格訳)>
◇恋愛の手紙 新居格編 泉書院 1937 224p 1.00円
○大地 第一部 パアル・バック著、新居格訳 第一書房 1938 369p<戦時体制版> 0.78円
○大地 第二部 息子達 パアル・バック著、新居格訳 第一書房 1938 460p<戦時体制版> 0.78円
○大地 第三部 分裂せる家 パアル・バック著、新居格訳 第一書房 1938 417p<戦時体制版> 0.78円
●我国土・我国民 林語堂著、新居格著 豊文書院 1938 604p 2.80円
○我国土・我国民 林語堂著、新居格著 改訂版 豊文書院 1938 599p 3.00円
○イアリング マジョリ・ロオリングス著、新居格訳 四元社 1939 580p 1.80円
○怒りの葡萄 上巻 ジョン・スタインベック著、新居格訳 四元社 1939 373p<原書名:The grapes of wrath> 1.80円
◇支那在留日本人小学生 綴方現地報告 新居格編 第一書房 1939 471p 0.78円
○大地 第二部 パアル・バック著、新居格訳 戦時体制十四版 第一書房 1939 460p0.78円 <内容:息子達>
○大地 第三部 パアル・バック著、新居格訳 戦時体制十三版 第一書房 1939 417p0.78円 <内容:分裂せる家>
○農民 第一部 レイモント著、新居格訳 第一書房 1939 405p<戦時体制版> 0.78円 <内容:秋の巻>
○イアリング M.K.ローリングス著、新居格訳 洛陽書院 1940 580p<決定版> 2.00円
○怒りの葡萄 上巻 スタインベック著、新居格訳 第一書房 1940 373p 1.50円
○怒りの葡萄 下巻 スタインベック著、新居格訳 第一書房 1940 478p 1.80円
○青春の記録 クリストフワー・モーリ著、新居格訳 洛陽書院 1940 404p<原書名:Kitty Foyle> 2.00円
○ノーベル文学賞叢書 5 今日の問題社 1940 265p<内容:ありのまゝの貴女(パアル・バック著、新居格訳)>
◇戦争と文化 新居格著 育生社 1941 202p (新世代叢書) 0.80円
○農民 第四部 レイモント著、新居格訳 第一書房 1941 391p 0.78円<内容:夏の巻>
◆野雀は語る 新居格著 青年書房 1941 290p 1.80円
◆街の哲学 新居格著 青年書房 1941 406p 1.80円
◆新しき倫理 新居格著 金鈴社 1942 301p 1.60円
◆心のひゝ゛き 新居格著 道統社 1942 275p 2.00円
○人類生活史 F.P.プレンディス著、新居格、山内房吉訳 東洋経済新報社 1942 467p 3.20円
◇男性論 新居格編 昭和書房 1942 296p 1.80円<内容:男性に対する要望(吉岡弥生) 男性の心遣を(滝田菊江) 他19編>
◆心の日曜日 新居格著 大京堂書店 1943 316p 1.90円
◇新女大学 新居格著 全国書房 1943 280p 1.80円
◇年齢の思索 新居格、堀秀彦他執筆 教材社 1943 259p 1.60円<内容:永遠の若さについて(古谷網武) 他10編>

◇人間復興 新居格著 玄同社 1946
◇新女性教養読本 新居格他 共和出版社 1946
◇民主的な理想農村 新居格著 藤書房 1947(「新農村建設叢書1」)
◇社会問題 新居格他 二見書房 (「社会科学講座」第五巻)1947
◇心の暦日 新居格著 川崎出版社 1947
◇市井人の哲学 新居格著 清流社 1947
◇無政府主義と虚無思想 新居格他 星光書院 1948

○未来の旗 カール・フリードリッヒ著、新居格訳 大泉書店 1948 363p
○龍子 上下巻 パール・バック著、新居格訳 労働文化社 1950 2冊
○大地 第2部 パール・バック著、新居格訳 共和出版社 1951
○大地 第3部 パール・バック著、新居格訳 共和出版社 1951
○大地 第1-3部 パール・バック著、新居格訳 三笠書房 1952-53 3冊 図版 (三笠ライブラリー現代世界文学編)
○三笠版 現代世界文学全集 別巻 第3-4 三笠書房 1953-54
●大地 第1-4巻 パール・バック著、新居格訳 新潮社 1953-54 4冊 (新潮文庫)
◆区長日記 遠藤  学芸通信社 1955 2刷 270p 図版
◆新居格杉並区長日記−遺稿 波書房 1975 284p 肖像 1200円

◆アナキズム芸術論(復刻版) 黒色戦線社 1988 1500円




参考図書・資料(上記リストの◆印以外)


海野弘・著「都市を翔ける女−二十世紀ファッション周遊」/平凡社/1988/11/5

海野弘・編  「モダン都市文学T巻 モダン東京案内」/平凡社/H1/11/24
鈴木貞美・編 「モダン都市文学U巻 モダンガールの誘惑」/平凡社/H1/12/22
川本三郎・編 「モダン都市文学V巻 都市の周縁」/平凡社/H2/3/8
川本三郎・編 「モダン都市文学W巻 都会の幻想」/平凡社/H2/3/29
川本三郎・編 「モダン都市文学X巻 観光と乗り物」/平凡社/H2/5/25
海野弘・編  「モダン都市文学Y巻 機械のメトロポリス」/平凡社/H2/7/16
川本三郎・編 「モダン都市文学Z巻 犯罪都市」/平凡社/H2/9/20
鈴木貞美・編 「モダン都市文学]巻 都市の詩集」/平凡社/H2/4/18

南博・編集代表「近代庶民生活誌 第一巻 人間世相」/三一書房/1985/11/15
南博・編集代表「近代庶民生活誌 第三巻 世相語・風俗語」/三一書房/1985/5/31

和巻耿介・著 「評伝 新居 格」/文治堂書店/1991/12/20
鑓田研一・著 「伝記小説 賀川豊彦」/不二屋書房/S9/12
横山春一・著 「賀川豊彦」

日本近代文学館・小田切道「日本近代文学大事典 第三巻」/講談社/S52/12/18
嘉治隆一・著 「折り折りの人」U巻/朝日新聞社/S42/2/20

大宅壮一   「大宅壮一全集 第一巻」/桜楓社/S56/10/1
大宅壮一   「大宅壮一全集 第二巻」/桜楓社/S56/2/25

       「御大典記念阿波人物鑑」/徳島日々新報社/S3/3
       「別冊 徳島歴史人物鑑」/徳島新聞社/H6/6/1
藤村 作・監修「新撰 日本文學辞典」/學燈社/S28/8/25
山田明・著  「近代四国人物夜話」/四國郷土史研究會/S26/5/15


白炭屋カウンターへ
新居 格のページへ

tamajun■gmail.com(■をアットマークに読み替えてください) inserted by FC2 system