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981101付けテキスト


谷川史子「きもち満月(フルムーン)」/集英社/1991/11/20

■収録作品メモ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『きもち満月』
りぼん・平成2年12月号から平成3年2月号

『緑の頃わたしたちは』
りぼんオリジナル・平成3年初夏の号
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この2作、どっちもイイんだけど、世間的評価としては矢張り
「緑の頃わたしたちは」に票が集まっている様で。


基本的に「人が集まってわいわいやってる」雰囲気が
この作者を好きになった所以であれば、私は前者の其れも好きなんですけども。
特にこういう・・3人(+1人)の登場人物の構成は、結構好き。


主人公月岡みちる、は豆腐の暗示により、白くて四角い物(消しゴムとか)
を額に乗せると馬鹿力を出してしまう羽目に。

この秘密を知ってしまった(というか彼がそもそもの原因なのだが)小梅君と
矢張りその秘密を知ってしまった豆腐屋の娘萌子ちゃん。
最近変な人に尾けられている萌子ちゃんは、月岡の馬鹿力を見込んで
ボディーガードをしてくれと頼んでくるのだが−

オチとか全体の構成とか、オイオイ無茶苦茶だよ的なんだけど、
その無茶さが逆にとてもいい感じ。
なんつーか・・・アバタモエクボですねこりゃ。

季節は例によって冬。ストーブとかコートとか。実質11〜2月の連載。
もうそれだけで嬉しい冬フェチの私であった。




−で。その後者。

主人公が憧れるのは司書の人。年上の、大人の人。高遠つーと、
なんか往年のパンクルックの編集者が目の前をよぎったりする私ですが、
このタカトオさんも頬のこけた青年。彼の笑顔が見たくて
図書館に通い詰める主人公は、どんどん彼に惹かれていく。
そして、ある理由から「誰かを好きになるなんて2度とないと思ってた」
高遠氏もまた−


この作品が前者と違うのは、「人を好きになる過程」がきっちり描かれていること。

谷川作品のライトさは、時としてそのライトさ故にその辺の描写が曖昧だったり
(或いは最初から好きだったり)する様なのだけど、これはその辺に踏み込んでいる。
特に(二度と人を好きになる事がないと思っていた)高遠氏が唐澤あかりを
好きになっていく下りは、実に切なくてイイのだ。


いや・・・何というか・・・「お おそまつさま」(P136)は名台詞だと思う・・・。


読み返す毎にその持つ爽やかな哀しさ(郷愁という言葉がもつ、あの切ない感じに
似ている。中身は違うけど)がどんどん染み込んでくる感じ・・・
p149-152に流れる空気の清涼さよ。p149の、声をかけるのを一瞬ためらってから、
思い直したように声をかけるタイミングの巧さ。


・・・でもちょっと暗くて。
やぱし谷川作品には元気印を期待してしまう私です。

暗さの原因には、画面そのものの「黒さ」も有るんじゃないかしら。
主人公のスミベタの髪も、心なしか重たげだし・・・

いや、こういうのも好きなんですけどね。

優柔不断男
@@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
(981028)

谷川史子「君と僕の街で」/集英社/1994/07/20 何が凄いって・・・・p63-64、 真枝氏と待ち合わせしてる「つきあい始めたばかりの」 すみれを盗み見て、そのドキドキがうつってしまう・・・・ という描写。 読者の私にもそのドキドキは伝わって。 たまらない・・・! やはりこの作者は斯う言った連作オムニバスが似合いだ。 最もそのセンスを生かせるパターンだろう。 結局の所、私ゃ別にこの作者に「新しい物語」を求めてる訳ではなくて、 その絵そのもの、あるいはそのシチュエーションそのものに惚れてるんだ・・・ 例えば、下校時に立ち寄るうどん屋、とかそう言う「シーン」。 何気ない日常の、何という切ない、美しい輝き。 ・・勿論拙者だって友人達と飯屋に行ったりしてたけど、「こういう」のとは まるでちがってた気がする。 ここに描かれているのは、いわば「下校時にうどん屋立ち寄り」という シチュエーションのイデアみたいなもので。 P95、うどん屋「平八」の、その1コマの爽やかさ。 ここにこの作者の魅力の全てが有る。 あと・・・ このラストの一本は「ぼくらの気持ち」の「彼の時間彼女の時間」の 二人じゃないかー。そう言えば喫茶モモンガの湯泉川君も出てるなあ。 もしかして谷川漫画って舞台全部同じ街だったりする? その辺に注目しつつ、一度全部通して読んでみなくてはね・・ あと、どうでも良いことかも知れないけど この単行本、表紙で凄い損してると思う。 この表紙はちょっと・・・ショボくない?いや、良いんですけどね・・・ 最後まで買わなかった理由がこの表紙だった @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (981028)
神林長平「宇宙探査機 迷惑一番」/光文社/1986/09/20 生きている限りこの世はある この世の主人公はいつでも私だ 「略して、メタバタ」 あまりにも有名な火浦功による解説。 今漸くその”実物”を目にすることが出来た、その喜びは大きい。 結構傑作。オチの付き方もあっさりとまとまっていて、読後感もそこそこ良い。 「主人公」小樽大介中尉の喋りが何とも言えず神林していて良いのだ。 他の作品の「おれ」と比べると、多少脳天気な− ときは未来。ところは宇宙。 月近くに現れた謎の物体を探査していた「脳天気中隊」こと 「雷獣」小隊は、その物体”マーキュリー”と共に−正しくはその 「言語発生機」と共に−平行宇宙へと飛ばされてしまう。 そこでは、軍は民営化を図ろうとしており、そのクーデターに 巻き込まれていく脳天気小隊−と言うのが表面上の「物語」。 この作品の構造の外枠は、水星の和泉禅禄教授の次元探査計画にある。 「観測者がいるから、この世はあるといってもいい。  人間原理だ。珍しい原理ではない。  和泉教授はなんとかそれを確かめる方法はないかと考えていたよ」(P121) 観察者の眼が無くても、宇宙は存在しうるのか−観察者たるこの「わたし」が 居なくても、宇宙は存在するのか?自分が死んだ後も? それを確かめる為に造られ、送り込まれたのがこの「迷惑一番」と呼ばれる 「言語発生機」なのである。彼が記述する「別世界」を、 別の平行世界の和泉教授が受け取る、という仕掛け。 またしても「言葉」。はじめに言葉ありき。 云ってしまえば 「言語がこの宇宙を記述することで、宇宙は初めて存在している」という話で−。 これは他の作品でもまま見られるお馴染みの展開ではある。 この作品の特徴は、このお馴染みのバックボーンのもと、軽妙なドタバタが 演じられる所にある。全く「メタバタ」とは言い得て妙、と言える。 「迷惑一番」が”憑依”したタヌキのぬいぐるみ(ポムポム・・・)の 愛らしさも神林一流のソレだし、脳天気小隊の”晨電(しんでん)”という 戦闘機のイメージ、特に高機動戦闘モードへ移行する際に、パイロットの全身に マン=マシンインターフェイス用の”針”が打ち込まれる描写などは実にイイ。 この辺、神林の魅力が詰まった一冊、と言えなくもない。現在絶版なので 古本屋で見かけた折りは是非− と言うところで終わってしまうのも何なんで、もう少し。 正直、これを傑作と言い切れないのは、この思考ルーチンが拙者の中に 既存の物として存在しているからで。「言葉が全て」て奴。 だからこそ、その呪縛から解き放たれたが如き「魂の駆動体」や「ライトジーン」 に感動もした。神林は常に新鮮な思考をドライブしてくれる− ・・・もっと以前に読んでいれば或いは・・・ 神林作品の、その魅力のオオモトは結局 「情報は物理的な力を持っている、情報は物理法則で扱える、ということの証明」 にあるのだなぁ、と今更考えてみたりもする今日この頃の @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (981028)

なんか目を引いたので。


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