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980520付けテキスト


Paul Anderson        "TAU ZERO"                        /1970
ポール・アンダースン「タウ・ゼロ」浅倉久志 訳/創元SF/1992/02/28



ひー。今頃読んでます。ゴメンナサイ。そんな眼で見ないで。石投げないで。


でも、これは、流石に面白い。いやもう無茶苦茶面白かったスよ。

1970年現在(28年も前だ。信じられん。)の最新知識を
総動員して描かれるのは、古今未曾有の壮大なドラマ。
壮大さ、という点では、もう比類無いことこの上無し(駄目な日本語)。
どれくらい壮大かというと、「トップをねらえ!」の大体10億倍位の壮大さ。
後半、もう呆然唖然としてしまって、言葉もでなかった。
度肝を抜かれるとはこの事か!SFしてて良かった!的。


50人の男女を乗せて、32光年の彼方乙女座ベータ星第三惑星を
目指して飛び立ったラムジェット式恒星船
<レオノーラ・クリスティーネ号>は、その旅の途中で小星雲と衝突、
エンジンの減速システムが故障してしまう。
亜高速の船で船外活動を行うこともままならず、停まれない船は
数々の要因から加速を続けざるを得なくなっていく・・・


あー。昔(この本が発売された頃私はSFマガジンの割と熱心な読者だった)
この手の紹介記事読んで「加速し続ける船」というだけの印象しか
無かったのだけど、それがどういう意味を持つのか、
読んでみて初めて解ったという。読んでみるまで全然解らなかったという。
そりゃわからんわ。これは解らん。

兎に角凄い。凄すぎる〜!と叫んで回りたくなる気分。
この迫力ばっかりは、読んで貰ってその迫力を感じて頂くしかない。
展開にぐいぐいと引っ張られ、船の加速と共に加速されていく感覚。
ホントに物語が「加速」していくのよ。船の速度と共に。
殆どジェットコースターSF。

後半、加速が限りなく光に近付いて、銀河団とボイドを見る間に
通過していく様は背筋が凍る様な迫力だった。
しかもその間隔がどんどん狭くなっていくという。
勿論その間に実際の時間での何千万年もが過ぎ去っていく。
ものの1分が、何億年にも相当する世界。
そして、彼等はその目の前で宇宙の収縮を迎え・・・・


天地創造を「外側から」見ちゃう絵なんてのはもう
流石に「そりゃないぜセニョール!」というか、無茶苦茶だ〜!!
とか思ってしまうが、それも「あり得る」展開なのだった。
それをなし得る設定、考証がこの宇宙船には施されている。

このラムジェット船(「ラムスクープフィールド」とか「ラムスクープ船」とか)
の考証が細部に至るまで作り込まれていて、特に亜光速まで加速した船では
星間物質の衝突から発生するガンマ線等で瞬時に焼き殺されてしまう−
というあたりの描写が非常に新鮮だった。それを防ぐための磁場、だがその磁場を
発生させ続けるためにはエンジンを止めるわけにはいかない。
エンジンを止めないと修理は出来ない・・・・うーん。巧い。


この本の優れているところは、そのハードSF的な面だけでなく、
そう言う事態を前にした群衆の、人間ドラマが(可成り理想的ではあれ)興味深く
展開されているところにもある。50人のどのキャラもが個性を持ち、
それぞれの思惑で生きている。何が有ろうと負けない強さを持つ護衛官
チャールズ・レイモントの格好良さはなかなかのものであった。
あとイングリッド・リンドグレン副長は、個人的にはユリカ(ナデシコ艦長)
っぽいと思うがどうか。


・・・巻末の金子隆一による「科学解説」がまた厚くて。30頁以上ある。
これだけでも随分ラムジェットエンジン通及び現代宇宙論に
詳しくなれるというものだ。今宇宙はどうなっているのか・・・



あー。あ゛ー。
こんなに興奮したのは、もう、高校の頃以来だスよ。
具体的に言うと、「ブラッド・ミュージック」を徹夜で読んだ夜以来。

初めてSFに出逢った頃の感動を、更に超えた感動。
やっぱさ、SFってのは、これだよな、これ。


センス・オブ・ワンダーさ。
@@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
(980519)

山田正紀「神狩り」/早川書房/1976/11/30 うーん・・・・・・。 確かに、凄いわ。この説明不足ぶり。 ラストの暴力的なまでの終わり方は、何というか 「荒れた」時代を感じさせて、良い。 1974年(初出)当時作者23歳。23・・・ 成る程確かに「天才だ!!」と騒いでしまう様な出来である。 牽引力のある文体・ストーリー、的を得た状況描写。 非常に「頭の良い」作家という印象。 各章の最初に「現在」の描写があって、読者はまずそこへ放り込まれる。 それからおもむろに、そこへ至った経緯が説明されていく− というのを、章毎に繰り返し、これが特殊な雰囲気を醸し出している。 物語は、有り体に言ってしまえば「神」の存在を感じ取った人々が、 その「神」に対して果てしない戦いを挑む姿を描いたもの、である。 「神」の挑戦状である<古代文字>を解読することに、有史以来 命を懸けてきた者達のドラマ・・・ 想像を絶する構造(文字通り、人間の脳レベルでは理解不能)を持った <古代文字>に、情報工学の天才、島津圭助が連想コンピュータと共に挑む。 驚いたのは「連想コンピュータ」の使い方で、今から24年前の 作品だというのに、その「使い方」が全く古く感じられない。 まぁ学究に使う場合、それ程「使い方」に変化は無いか・・・ 学究の徒にとっては、コンピュータと言っても「速い計算機」の域を出ない訳で。 詳細な描写がないというのも幸いして、其処だけが今も 妙に真新しく見える。−というよりも、他の描写があまりにも 「時代」を映している為、其処だけが浮いて見えるような印象。 薄暗いバーや長髪の学生達、その学生運動に揺れる大学構内の描写や その他諸々が如何にもな70年代初期の臭いを強烈に放っているのだった。 何せ相手は人類の想像を絶する<神>と呼ばれる存在だ。 所詮釈迦の掌の上の悟空の如き人類。手も足もでない。 秘密に触れようとした者は、ほんの一ひねりで消されてしまう。 「だから、奴の前にはいつくばったままでいろ、と言うのか?奴が好き勝手に  ふるまうのを、忘れてしまえと・・・・」(p142) 斯う言う「絶対的な敵としての神」てパターン最近見ない。 「神を狩り出す」等という無謀なまでの壮大さも、考えてみれば 70年代日本SFの臭いが色濃いではないか。 いわば「なめんなよ神々!!」といった「若さ」。 人類がまだ全宇宙を、自らの創造主を相手に戦っていた、戦えた時代。 全く歯が立たないと解っていながら、それでも一矢報いたい、 ひとあわふかせるだけでいい、あとはどうなっても・・・と言った 熱いたぎる血が、当時のワカモノには流れていたのだ・・・ 等という下手な「読み解き」は置くとして。 ただこの作品自体は紙量が少ない為か、何となく大長編の序章、 プロモーションフィルムという感じを受けた。 「本編」は書かれているのだろうか? それにしても今、これ程 「誰かに操られるのが嫌だ。俺は自分の意志で行動する!」とか 熱く思っているワカモノは居るのだろうか。今やこの社会そのものが、 時の流れに身を任せ、流れの中で身を処す「賢しさ」を身につけてしまった。 ヨウメイ氏位かも。彼なら、神の存在を知った瞬間、命懸けで 狩り出すだろう・・・・ ・・・・・あ!居る、居るわそう言う人達! トンデモ本書いたり読んだりしてる人達だ。 ユダヤとか。フリーメーソンとか。エロヒムとか。 毒電波から身を守るために壁中に銀紙を貼ったりしてる人達。 彼等は今も「神」と戦い続けているに違いない。 我々一般市民は、強大で無慈悲な神の掌で転がされ、ある日突然 何も解らないまま命を絶たれる。 その中で、彼等は最後まで抵抗し続け、前のめりに死んでいくのであろう。 だが、ああ、「神」はあまりにも強大だ・・・ やっぱり「いつか猫に」を思い出した @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (980519)
夏目房之介「マンガと「戦争」」/講談社現代新書/1997/12/20 イマイチ。 夏目センセーの論にしては、「成る程そうか!」という部分が無さ過ぎた。 このテーマはまた後に再考されるべきでは有ろう。 マンガ、特に少年漫画の世界に置いて、「戦争」は絶対に切り放せない存在である。 近作を観ても、EVAがそうであり、他にも列挙にいとまがない。 この論は、何故そうなのか、ではなくその扱われ方についての言及なのであるが、 「最後に」と題された作者の言葉を引くと、 「戦後マンガの「戦争」イメージの変遷を、時代と日本人の変化に接する位相で  たどり、現在にまでつなげてみたいと思っていた」が、論を進めていくうち 新たな問題が出てきて上手く行かなかった、と。 ・・・全くそう言う感じ。 ただこの切り口は割合使い回しが出来そうなので、今後の展開に期待。 戦後日本に於ける「戦争」の記憶がマンガの中で如何に再現され、忘れられ、 新たな事象に移行していったか。 然しこの切り口で、きちんと少年漫画史(青年誌マンガ含)が語れてしまう辺り、 本当に日本の漫画と戦争は、切り放せないのだなぁと。 ま、そんな、所、でした。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (980519)
天沼春樹「猫町 ∞ mugen」/パロル舎/1997/05/25 装丁に引かれて手に取った。読みたい、と思わせる、引き込む様な装丁。 エジプト風味。タイトルを挟んで猫ミイラが二本、立っている。 装画は出久根 育。 この「パロル舎」という出版社の名前を、私は初めて知った。 でも実のところ、装丁の空気と中身には一切リンク無し。 表紙に偽りあり、だ。違和感すら感じる。 中身はむしむしじとじとした夜の「ニホンの」町。 主人公は商事会社に勤めていたのだが、出向と言う形で今「ネコトリ」をしている。 急な入り用でネコトリを強化したいのだが、今日は一向に捕まらない。 かくして、ネコトリなら知らぬ者はないという「猫町」へ足を向ける一行。 この「ろくでもない町」で一番若い洋ちゃんという少年と一緒に組まされた 主人公は、行きがかり上、素性の知れない女の家へ上がることになるのだが・・ 猫の皮を何に使うのか知らないが、都市伝説のレベルで「猫捕り」の話を 最近結構耳にするので、案外斯う言う人達は実在していて、夜の町を捕虫網もって 彷徨っているのかも知れないな・・・ 正直「ふーん・・・」という読感しか無い。 「講」へ新しい血を、という(幻想世界なりに)理に落ちた展開には、 妙に冷めてしまうものを感じるのだった。 いっそ何も謎解きをしない方が良かったかも。 ふーん・・・という読感とは別に、読書中に体感した どぶ川の臭いや湿った蒸し暑い空気や猫の冷たい足の裏や女の黒い姿や 猫の手触りなんかは、かなり鮮烈な印象として残った。 現実とも虚構ともつかない、現実世界と地続きの「闇」の雰囲気を 見事に描いている。 この印象、夜の猫町の印象は、読後暫く頭から離れなかった。 多分これからも、折り有るごとに思い出すのではないだろうか・・・ 何か昔読んだ者に近い印象があったな・・・と思い出すに、恐らく筒井の短編の いずれかであろう。筒井の描いていた「夜闇」と同種の臭いを嗅いだ。 昼間のハレーションを起こしている暑さと、夜闇のどろりとした暑さ。 どちらにしても、夏読むと結構ハマりそうだ・・・ 冒頭及び巻末の「夢」と非常に良く似たものを見たことがある @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (980520)

情けない。


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