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980105付けテキスト


衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル 9」/エニックス/1997/12/22

「おれの彼女は悪魔だぜ〜っ!!」

相変わらず個人的には激ラブの漫画なんですが。

・・・何か今巻は・・・
いや、まぁ結局デビルククリに尽きると
云ってしまえばそれだけなんですが。

巻末のアレじゃないですが、
今巻は全体的にメルヒェン入ってますね。
ギップルも出てこなくて、もう何かやりたい放題という感じ。
でもそれは作者のひとりよがりな訳じゃなくて、
そのやりたい放題ぶりが、きっちりエンタティメントとして
計算されている辺りが流石と言えましょう。

前巻辺りと比較すると、ラブコメ度は薄い(キャラが少ないのも有るか)
−というか、何か全体的にククリワールドな今巻。

これがアラハビカの正体が判明したときに
「成る程!」という感じを生んだりはしているのだけれど
実際ククリの目に見えている「世界」てのは
あんな感じなのかも知れないな・・・

絵的には常に変化し続けるこの作者。
青トウガラシを頼む露天商のオヤジ等は、
以前に無いほどのデザイン化が進んでいる。
漫画のキャラとしてギリギリの線かも・・・
とか思ったら、直ぐ後に、昔の濃いタッチの「大物」
ファンタジー北島が出てきたりして(然も全く本編には関係ない・・のか?)
うーん。


・・・・然し面白いねぇ。つくづく。
安心して笑える・・「心の傷武闘会」のくだりとかもー。
ウニョラー!とかさ。技術とかそういうレベルじゃなくて・・・
芯のマインドがイカスんだよな・・・

あ、私的な今巻のベストショットは
p114「どうしよう」のククリ。なんか好き・・
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椎名誠・林政明「あやしい探検隊焚火発見伝」/小学館/1996/10/20 「全日本食えばわかる図鑑」(名著)の実地篇。 出かけては料理をして食う、という いつもの、ただ焚き火と飲酒と嘘歌の探検隊の無軌道さから 「料理」に有る程度焦点を絞った展開。 感想は特に無し。というか、また彼らやってるな、的読感。 まぁそれを確認するために読んでる様なもので・・・ 結構荒物食いに走ってるので、読んでて腹が減ると言うことも少なかったり。 唯一これは!というのがタケノコ。実際にやってしまえそうな所が良。 ほりたての筍を焚き火に放り込んで、表面が炭になったところを 取り出して、此を割って醤油をかけて食う。あああ。 筍の唐揚げとか・・・あああ春が待ち遠しい・・・大体あれは文字通り「旬」 しか食べられなくて・・・昨年の春は何となく食い損なってしまったしなぁ・・ 缶詰なんか食べる気はしないし・・・等と急に食べたくなるのだった。 毎日ジャンクな(一週間三食インスタントラーメンでも気にしない質で)もの ばっかりたべてる私ですが、たまには舌が(胃がじゃなく)喜ぶような 食事をしたいなとも思うのです。 タイトルには焚火発見伝とありますが、まぁこのヒトタチは常に 焚き火と共にあるわけで・・・ 焚き火もいいなぁ、と。もう今更「あやしい探検隊ごっこ」も無いだろうし (昔はいっぱい居たのだそうだ。真似モノ達が。)今やっても恥ずかしくないだろう。 我らが防衛隊でひとつ・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
星新一が、死んだ。 あのホシ・シンイチが死んだのだ。 享年71歳。 命短し襷に長し。 皆でホシヅルを描いてその徳を偲ぼう。 星作品と出逢ったとき、既に氏は書くことを止めていたが 僕はSFの何たるかの多くを星作品から学んだ。 手元にある40冊余りの文庫及びノベルは、 僕がSFと出逢った最初期に読んだものだ。 日に一冊は読んでいたのではないかしら。 その蜜月時代は然し精々2ヶ月で、 高一の夏が来る頃には、僕は新潮や角川の星作品から 青背や(矢張り新潮や角川の)筒井作品に走り出していたのだが− 僕のSF趣味は、だから星作品の基礎の上に有ると言っても良い。 一体星作品の何がそこまで良かったのか・・・ とっつきの良さに尽きる。SFをSFと感じさせずに でも実はセンスオブワンダー、という。必ずSFなオチがある。 沢山のショートショート(今やこの言葉さえ行方不明だ)を読んだが、 結局星作品にある構成の巧さに勝るものは無かった。ブラウンでさえもだ。 嘗ての草上仁の作品の中には、星作品の平均を上回っている出来のものも 有った様に思うけれど・・・でも打率と連続出場数が桁違いだ。 あのレベルで1000作品を超えることなど、永遠に不可能なのではないか。 空前絶後。 嘗てDAICON6のカタログに 「才能が尽きて、今は何もしていません」と言った旨の文字をみたのが 結局最後だったような気がする。(あ、SFMに何か文章を書いていたっけな) せめて生前一度でもいいからその姿を拝見したかった・・・ どんなに才能のある人間でも、どんなに生気溢れる人でも、 いつかは老いて死んでいく・・・だが、作家はまだしも幸福だ。 作品が残るのだから。 作品は作家の記憶そのものだ。 作品が読まれ続ける限り、作家は形を変えて生き続ける。 星作品は、恐らく来世紀も読まれ続けるだろう。 それも世界中で。 昭和の末期には、既に何百という短編が何十もの言語に 翻訳されていた。特に東欧やロシア語圏、 そして何より中国で圧倒的に支持されている、とあった。 エスペラント語は兎も角、 インドネシア語やアゼルバイジャン語に翻訳されてる 日本の小説家なんて他に居るだろうか? 今や日本人で「繁栄の花」を、 或いは「おみやげ」を読まずに大人になった人は ある世代より下では既に少数派かも知れない。 星作品については、かつて筒井康隆が新潮版「ボッコちゃん」の 解説で語った様に、私の如き通過者には解らない 深い読み方などもあるに違いない。 考えてみたら、星新一の系統だった研究って観たことなくて。 今や日本唯一のSF雑誌が、どういう特集を組んでくれるか・・・ ・・・ただ、死人に鞭打つつもりじゃないんですけど 僕が高校生当時のSFファン達の会話を。 図書館とかでこんな話ばかりしてたなぁ。 「星新一のって読むと端から忘れちゃうんだよねぇ」 「どれも同じて訳じゃないんだけど」 「オチの直前まで気がつかなくて、オチを読んで漸く  以前に読んだことがあるのに気付く」 「文庫何冊ダブり買いしたか・・・」 「多分作品の中に忘却装置が仕込まれてるに違いない」 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
いとうせいこう・みうらじゅん「見仏記」/中央公論社/1993/9/20 今奥付をみて驚いた。1993とは。 ついこの間「出た」てのを聞いた様な気がしていたが・・・ 当時、みうら氏の仏(ブツ)好きがTVなどで取り上げられていた裏には、 この連載があった訳か・・・連載は「中央公論」1992.9〜1993.9。 内容はタイトルの示すとおり、奈良・京都・東北・九州を股に掛け 仏閣を巡り、仏像(ブツ)を見て歩く連載。 イラスト:みうらじゅん文章:いとうせいこうという体で どうしてもいとう世界がメインに来てしまうのだけど・・・ 矢張り、というか、いとうせいこうの文章というのは (それ程読んできた訳じゃ無いけれど)脳を刺激してくれる。 彼の「現象(現実)を切り取って提示してみせる」センスは 本当にツボにハマる。知識や経験以前の「センス」。生来のモノだろう。 で、そうやってゲンジツのブツを前に、果てしなく現実認識のメタ化とか リアリティの複雑化とかそういう内部思考へ暴走していくいとうを 現実に引き戻すキャラとしてのみうら氏が居るという弥次喜多展開。 いとうせいこうの、「現在見ているもの」を見ないで、 直ぐに観念世界へ飛んでしまう「悪い癖」を見ていると、 自分は「いとう寄り」だなぁなどと感じたり。 「観念に逃げ込むことなく、事実を感じる」(p48)事の難しさ・・・ それに相対する存在としてのみうらじゅん氏の 現実を現実のみとしてとらえる「感想」がまたヘンで良い。 いとうをして「仏像をよりよく見るためのみうらさんのアイデアは、 常に奇抜ではあるが効果大だ。」と言わしめる、その暴走気味な 言動のオカシサ(仏像メリーゴーランド(p125)とか)が、 いとう世界(内的世界)で理論化されていく・・・というパターン。 文章はいとうの目から書かれているので、有る意味 「仏像を前にしたみうらじゅんの生態観察」的側面も有り みうら奇言動録としても楽しめたり(勿論それもいとうの術中なのだが)。 御開帳後の吉祥天をワイキキビーチにまで連れていってしまうみうらマインドは 殆どSFだ。戒壇院の四天王を前にみうらは言う。 「昔はモテモテだったよ、この人らは」 好きだ・・・こういうの。一瞬笑えるんだけど、その後意味の深さにゾクゾク来る。 ” しばらく無言のまま四天王を見ていると、みうらさんがすっと身を寄せてきた。  にやりと笑って、こう言う。  「かっこよさの基準は変わってないねぇ」”(p154) 勿論それはいとうせいこうの耳目を一度透過し、濾過されているからこそ ハッキリと見え、感じることが出来るものだ。 氏の「切り取る巧さ」をつくづく感じる次第。 で、暴走するみうらとそれを理論化するいとう−のパターンが、巻末に至って 実はこの「暴走」と「理論化」構造は最初から逆転していたのだ・・・ とか(P237〜)、この辺実に上手い。 いや無理矢理作ってる訳でもないんだろうけど、巧い。巧いなぁ・・・ 仏像が「観光」の対象になった展開についての歴史を語って(p134)みたり、 文殊に恋したり(p186)(この下りは最高。「いとうさん、文殊に恋したね?」) しつつ、お互い相反する現実認識方法を持つ二人の旅は一年続き そして京都駅のホームで33年後の再会を期して、別れるのだった。 このへんの「ラストシーン」空気を感じただけでもう読んだ価値有り。 ちょっといかがわしいあたりがまた良いのだ。 ”心”があふれ過ぎているから、今こそブツを見直しませんか。 フム・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@


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