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安彦良和

Yasuhiko Yoshikazu

安彦良和「蚤の王」/講談社/2001/07/23

「ナムジ」「神武」に連なる日本古代史シリーズ、という感じ。
なんかもうどんどんマイナーな時代に入り込んでいる感じがして素敵。
まあどんな時代でも「安彦マンガ」の方程式に填め込める勢力図ってのが存在
してて、それを「お、これ使える」とか良いながらピックアップしてるのかもな。

四世紀初め、「第十一代」垂仁天皇の治下。
出雲族を何かと煙たく思っていた大王(日向)が大和平野の東端の部族(初瀬)と
西端の部族(当麻)から代表者を出して相撲(片方が死ぬまで続ける)を行う
シーンから物語は始まる。強大な当麻を倒させ、かつ弱小の初瀬にその地を治め
させる謀。出雲族全体の弱体化を狙ったものだ。破れて山に放逐された当麻の
ケハヤの息子イサチは、一度初瀬の部族に復讐に来るが、スクネにあっさりと
返り討ちにあう。親父の万分の一でも強くなれ!イサチは山の土蜘蛛に入って
体を鍛える事に。

その後初瀬のスクネは丹の鉱脈を求めて葛城の山に入り、あの相撲の時に極め
られた三年殺しが効いて足萎えになってしまう。そこへイサチが復讐に来るの
だが、最早立つことも出来ないスクネ相手に復讐どころではない。戦う力のない
スクネを前に、自分は何のために辛苦に耐えてきたのか、どうやったら当麻の者
達は恨みを晴らしたらいいのか、と・・・勿論最大の敵は 日向の天皇である。

結局イサチは天皇の寝首をかこうと忍び入った所を捕らえられ、大君の叔父の
殉死者として墳墓に埋められる事になる。

で、その頃岩牢に押し込められて土器を焼いていたスクネはそれを聞いて・・・

・・・何で安彦作品の感想を書こうとするとあらすじを書くだけになっちゃう
のかなー。自分の中で物語の整理をしようとしてるのかも。お勉強的な部分を
抜いて、純粋にマンガ的な部分を見ると、何というか・・・・パターンだ。
導入部分から終わりまで、過去の安彦作品で「見た絵」ばかり。岩牢だしさ。

でもパターンってのは美しいものでもある。矢張り安彦の描く丈夫の上半身は
(無駄に)美しいし、格闘シーンの、読んでいて思わず体に力が入る様なパンチ
やキックの重量感には、本当に血がたぎる。この「血がたぎる」っていうの、いや
本当に安彦さんってのは「それ」を信じてるんだなー、とか思う。所謂「燃える
命の固まりに」みたいな、ああいう「血が燃える」事を信じている、というか。
ネーム書きながら燃えてるんだろうなあ。自分で。あんな柔和な外見なのに、
中身はこんなに熱いのか。・・・なんかヤだな。今作でもズバリな台詞があって

「恨みでも損得でもない気持ちが人をアツくすることもあると知ればよい」
「わるくない心地だ ひさかたぶりにひとの血が騒いだ 人心がついた・・・」
(p229)

血が騒ぐ事、が即ち人心なのだ、熱くなれ、と。こういう所が好き。今まで
読んできた安彦マンガの中で、特に好きなのはヒロが鍛えられるシーン
(ヴィナス戦記1巻p108-114)なのだった。何度読んでも血がたぎるぜー。

スクネの造形(アリオンで言うとプロメテウスか。妻子あるいい男)もいい感じに
仕上がっていて、オチの柔らかい「めでたしめでたし」っぷりも込みで、なんか
微妙に面白い作品になっていた。ほのぼの。
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(01/09/14)

安彦良和「王道の狗 6」/講談社/2000/03/09 「国の利益や民族の都合を超えた正しい道があることを  おまえは信じているか?」(p144) どうも作者は信じてなさそうなフシがある。いや、多分この作者は何も信じちゃ いないんだろうけど。・・・あの後半に至っての主人公側の突き離し方はちょっと 非道い位で、「王道なんつっても所詮は殺し合いよ」というか、あんまり感情移入の 出来る展開では無かった・・・まあこれが然し今の日本に繋がる「近代日本の生き様」 だった訳なんだけど・・・ 明確に死のイメージは無かったけど、加納は恐らくその「王道を往く」道の中で 死んだのだろう。大陸の革命に身を投じて、彼自身は最後までアジア主義という 「王道」思想の走狗として生きた、と。そういう生き方も、有ろうとは思う。 己の信じるもののため、一生をそれに捧げる。私利私欲とは遠い、だがどこか 危うい理想者。若かった頃に受けた挫折の傷をあがなうために、残りの一生を かけた生き様だったとも言える。 ・・・所詮人生に意味など無いとしたら、確かにこういう生き方もアリ、なのだ。 実際の歴史を下敷きに展開した以上、最後はこういう展開にならざるを得なかったの だろう−が。どうもすっきりしない。読後感がイマイチ。この感触は、多分この作品の スタイルによるものだと思うんだけど・・・ 全くのフィクションでもなければ勿論ノンフィクションでもない、というこの作りは 正直言って読者としては辛かった。微妙な翻案ってのは気持ち悪い。この辺の知識が まるで無いもんで、ともすれば鵜呑みにしてしまいそうなんだけど、でもフィクション なんだよなあ、と。学生時代ならまだしも、手元に資料の無い状態で読んでるんで 兎に角気持ちが悪い。架空戦記的なものを読むとき、ここはホントここは嘘、と ちゃんと割り切らないと、安心して読めない性格。じゃあ丁度良い機会だからこの辺 勉強しろよ、って事になるんだけど、うーん。スイマセン。勉強してません。 この作品を通して近代日本の有り様に詳しくなったとかなら格好いいんだけど、 ホントの所は無い歴史の知識を絞りながら、結局格闘のシーンだけ楽しんだ、って 感じのダメ読者で終わってしまいました。うう・・・こんなことじゃいかん・・・ いや、前にも書いた気がするけど、実際の歴史を下敷きにするんだったら、もっと 「お勉強」的な資料/副読本を出してくれよ!という気分にも。いや、もっと 知りたいんだ。ここまで来たなら、ちゃんと知りたい。ここは嘘だけどここはホント、 という部分をちゃんと示してくれ!誰でもいいから!頼む! ・・・うーん。やっぱ自分で勉強するしかないのか・・・「トロツキー」の時も ノモンハン関連の資料に手だけ付けて諦めたという。 ああ、収まらねえ〜。 歴史、ちゃんと勉強しよう・・・と何度目かの決意をしつつ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (2000/05/09)
安彦良和「王道の狗 5」/講談社/1999/12/07 いやもう「こう来るか!!」見たいな面白さ。やっぱ加納は近作の「この顔の」 キャラクター達とは違う、気骨のある奴だとは感じていたんだけど、実にもう。 ここまで「汚れ」られる奴だとは思わなかった。矢張り修羅場をくぐって生き延びた その図太さがなかなか・・・ で、今巻も安彦節満載、矢っ張り革命を志すものは官憲に押さえつけられて牢獄で 鬱々としながらも決して諦めず、再起を考えて自らを鍛えるものなのだ。あの 腕立て伏せこそが「あきらめない」証明だ。ナムジもそうだった。 そんな訳で風間にくってかかって石川島の監獄につながれた加納だが、勝先生の 力によって釈放されることとなる。勝は加納の顔つきにかつての坂本龍馬を重ねた、 という。陸で居られないなら船乗りにならないか、と誘うのである。 ああ、然し!この勝海舟の造形たるや!!ああもう。何て言ったら良いのか・・・ つまり「人物」って奴だよ。その飄々とした江戸風の語り口は決して他人を 畏れさせず、しかしその乾いた風体の下に迫力を秘めた・・・ただただ尊敬をのみ 生み出すような。この人に見込まれた上は、その期待をだけは裏切りたくない、 何とかこの人の期待に応えたい、そういう風に思ってしまう様な。             ・・・・ 「政治というやつはねぇ 五十年先が大事なのサ  今のことしか考えねえなら 八っつあん熊さんで足りらあナ  そんな程度の政治家が多すぎるのサ」(p47) 勝の見方から世界を見ると「自分が誰と戦ったらいいのか」が見えてくる。 「こういうやつとは戦うのサ 血をみるようになっても ネ」 正義、というか大義、「義」って奴が生き方を決めている。義に従って生きる、 王道の狗。冒頭、同じ牢屋に入れられた田中正造が言う 「お若いの 初志貫徹 だよ  大義名分の如何を識り  善なりと信じるところを  あくまで遂行する!  そのように生きて 男子たる者  悔いるはずがない」 コレなんかもその「義心」を良く表している言葉だ。 安彦氏の、あの穏和な風貌の下に眠る血の熱さに触れる思い。 陸奥宗光の指図によって風間は勝の新造船「あじあ丸」を沈めようとする。この 下りがまた巧くてなあ。緊迫感有るし、ラストの復元力の見事さを見せつけて 浮かぶあじあ丸の勇姿とか、それを見て目を見張る勝とかもう最高。この船進水式 事件が一区切りなんだけど、さてこの事件は本当に有ったことなんだろうか?どうも 勝先生というと幕末で終わった人みたいなイメージがあるんだけど、其の後の生き様 ってのも見てみたいのだ。良い資料無いかしら。しかし陸奥宗光ってどうしてああも (何読んでも)悪者なのか。非常な長身でアメリカかぶれ、どうも気になる存在では ある。こっちもちょっとちゃんとした伝記でも読んでみたい気分・・・ああ、日本史 なんて中学時代のそれしか知識がないから駄目だよって世界史ももう全然だけど。とか 言ってたらそのまま舞台はアジア全域に広がったり。 時は流れ一八九三年。加納は「清朝の支配を覆滅し 中華を再興する」結社 「三合会」に参加して「あじあ丸」で袁世凱の船を沈めたりしてる。対清という形で 合力している様だが・・・そこへ広州で革命結社を造った孫文がかくまってくれと 現れる。官憲の手から逃れるシーンの酉蔵の格好良さとか。うーん。痺れる。 キャラがいちいち生きてるよな。 かの不沈艦「定遠」(この迫力もなかなか・・)に臨検を受け、そこで李鴻章と 出会う加納。孫文の姿から「革命は一政治家の力ではなく民衆の中から生まれる のでは」と思っていた加納だが、矢張り「大物政治家はあなどれない」という認識に 立ち戻る。李鴻章から金と会ってみても、という言葉を引き出した加納は、金にその 知らせを持って向かう・・・そこに暗殺者の影が・・・というヒキで今巻は続く。 このとき加納はまだ二十六歳。孫文二十七歳。 「この先に試練を待つ者達はまだみんな若かった・・・」 若さと、時代と、大義。こういう事言うとまた何なんだけど、ホント燃えるよな。 男子たるもの・・・ ・・ああ、またあらすじ解説になってしまった。まあいいや。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (2000/02/07)
安彦良和「我が名はネロ 2」/文藝春秋/1999/09/25 もう少しどうにかならなかったのだろうか−というのが、初読の時の 正直な感想。私はこの作品に、もっと大局的な「お勉強」的なものを 期待していたのだ。 恐らくは作者にもそう言う心積もりがあったのではないか、だが諸般の事情 −例えば、この作品を掲載していた「コミックビンゴ」が廃刊 (99年5月号で)になった、とかそういう−によって、 「こうならざるを得なかった」のではないか。 1巻あとがきを読みかえすにつけ、享楽のローマ文化VS基督教の物語、が 「何らかの理由」で失速し、落ち着き所を無理に求めて「こんなことになった」 様に感じてしまうのである。 ・・・其程に読後感はショボイ・・・ああ、でも仕方ないよね。 廃刊じゃあねえ・・・sigh.... と、まぁ一読してみての感想はこんなもんだったんだけど、何度か読み返して いる内に、別にこの作品はその最初から私が期待していたほどの気宇壮大な 「歴史絵巻」が準備されていたわけでは無いのだ、と気付いた。 この作品に据えられた目線は最初から一貫して醒めていた。 火事場でのネロの活躍やペテロとパウロのそれぞれの「奇跡」、或いは 「暴君」の名を冠するに至った基督教徒の「惨殺」でさえもが、全て 現代の我々の立つ足元にまで引きずりおろされて、非常に醒めた目線を もって見せつけられる。狂気の時代、とは後から見ればそういうものだ。 ・・・しかし基督教のその始源の描きぶりたるやどうだ。 批判もしなければ賛美もしない。ただ物語として展開するのみ。 これでは感情をドライブされようもない・・・ それに、読後感がショボイのは、これはもう最近の安彦漫画の典型な訳で。 「語り手」(この場合レムス)が後半「物語」の中心から外れて、外の世界で 肉体的に痛めつけられ、夢も希望も失ってから(肉の落ちた躰で) 物語の終幕に立ち会う。ナムジを思い出さずにはいられない。 最後のレムスの「自己犠牲」が(彼の理解した)基督教的行為であることは 間違いないかと思う。アクテの存在がまさにそれだ。「倫理」が転換する 瞬間を描くには、しかしあまりにもショボイ。だが、それが近年の 安彦漫画の統一されたトーンなのである。 コルブロが手首を切らされる、というのが史実(かどうかは知らないんだけど) だとすると、ハナからレムスの夢は挫けることに決まっていた事になる。 ひいてはこのラストも、予定通りのものだった、のだろう。 安彦漫画、特に近年の、この「ぶつっ」切りによる終幕、オチのあっけなさや 漂う虚無感には、作者が「そういう」心境に落ち着いてしまい、これ以外の 展開を生めなくなっているのではという恐れすら抱く。 「アリオン」のラスト、或いは「クルドの星」のラストの様な、 「めでたしめでたし」的最終回では、もう「終われない」のかもしれない・・・ いや別にそれはそれでいいんですけど。何か読んでて辛いっす。 幸せな話も描いてくれい・・・安東?あれはなー。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/11/04)
安彦良和「王道の狗 4」/講談社/1999/08/06 なんか毎度毎度すっかりあらすじ解説と化してしまった王道の狗感想ですが。 さて。 前巻で金玉均の護衛として雇われた加納は、「貫真人(つらぬき・まひと)」 という名前を金から送られる。金はリウマチ治療のため、という名目で東京へ 向かうことに。加納=クワン=貫、は、とうとう東京に帰れる、と興奮する。 その頃永田町では陸奥宗光が「条約改正のためには、清国を戦争で破る必要が あり、金などをかくまっている場合ではない」と発言していた。陸奥の家来として あの風間(今は財部を名乗っている)もいた。陸奥は風間=財部に語る。 「志士の要件は変わらぬ。国と大儀の為に命を捨てる気があるかなしかだ!」 己のために生き、おのが利の為には人殺しも厭わぬ男風間は、しかし 「よろこんで!!」と答えるのだった。嘘だよな。バレバレ。 北海道を発つ前に、武田惣角師から教えを受ける加納。上京の許可の出た 金と共に向かった函館で、朝鮮政府の刺客が放った心眼流格闘家との決着 (この辺が格闘漫画としての山場。20ページくらい)をつけた加納は ますます血まみれの狗となって、金と共に東京へと向かうのであった。 慶應義塾で福沢諭吉と対面する金(と加納)。朝鮮の独立・近代化は 最早不可能と断じる福沢諭吉の「傲慢さ」に違和感を覚える二人。 朝鮮人を見下しているのではないか?人の上に人を造らず、ではなかったのか−? ・・・だが、今やそんな理想を語っている時期では無くなっているのだ。 西欧列強の力を肌で感じている福沢と、北海道帰りの加納の間には、既に かなりの温度差がある。 勝海舟とも面談。「大事なのは人物だよ」「主義主張はどうにでも変わるけど 人物は変わりゃしないからね」「ロシアにだって依ればいいのサ」 やはり朝鮮を小馬鹿にされてブチ切れる金。だが、それもまた・・・ 所詮金は弱小国のそれも一革命家に過ぎない。だが日本は今や「義」よりも 「実」をとらねば、欧米列強の前には太刀打ちできない。金は、いや、 彼の革命せんとしていた朝鮮は、最早日本から見て共謀すべき国では なくなっていたのだ。野蛮で、未開の・・・そういう時代の流れの中で 金の下、ひたすらに「王道の狗」を目指す加納の未来は、恐らく、暗い。 さて漸く本来の目的である湯治にと向かった伊香保温泉では、折しも 足尾銅山で鉱毒の被害が深刻になっていた頃、その視察に訪れている 農商務省の役人が当の鉱山会社の接待を受けていた。 その役人こそが風間なのであった。再び相見える風間と加納。 この交差線は、一体何処へ収束していくのか・・・・ しかしまあ明治期の傑物をこれでもかこれでもかと繰り出してくる辺りは なかなかに面白い。陸奥宗光の、あの何を考えているか解らないような造形とか 勝海舟のいかにも切れる老人、といった造形、或いは田中正造のタロスばりの 迫力など、兎に角作者のキャラ造形の技がもう冴える冴える。 特に勝海舟は格好いいぞ。人物だねえ・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/10/04)
安彦良和「王道の狗 3」/講談社/1999/03/09 冒頭、加納の事など知るはずのない永山北海道庁長官が、彼のことを 呼び出す所から今巻の物語は始まる。 徳弘さん、タキ(あぁ安彦女キャラ)と共に札幌へ向かう加納。 道中酉蔵という脱走囚人を助けたりしつつ道庁へ。 結局呼び出されたそもそもは、武田惣角からの推挙があったからなのだが 「きわめて大切な客人」の護衛をやってくれないかというのである。 此処で、再び加納は武田からの指南を受けることになる。この辺 武闘伝的な風合いがあって良い。 そして、今巻後半のクライマックス、大演武会へと展開。この辺から もう可成り格闘マンガの様相を呈してくる。戦いのシーンの気持ちよさは 毎度お馴染みの安彦アクション。堪能。 さてその護衛相手たる「大切な客人」とは− 甲申事変の主役にして、加納が囚人となるきっかけとなった朝鮮人、 あの金玉均なのであった。ここで加納は再び「運命」の流れを手にする。 「勝つぞ!勝てば金玉均の護衛役だ!  こんな絶好の機会をのがしてたまるか!見返してやる!!  日本中が注目しているあの人の傍について  大井さんやみんなを!!」 斯う言った、「今に見ていろ・・・・!」というパワー溢れるキャラは 実に安彦臭くて何ともイイ。然しこれから果たして一体何をするつもりなのか。 加納は「何か」をやるつもりなのか?彼はまだ「戦い」続けるつもりなのか? 巻末対談での「この物語を進めていくときの大敵」として陸奥宗光が 挙がっているということは・・・結局は金玉均と共に歴史の流れに飲み込まれて いくのだろうが・・・ ・ところでこの巻読んだ後、Webで「武田惣角」「大東流柔術」で検索を かけてみたところ、かなりの件数がヒット。何処も非常に充実した内容で 格闘技ファンの層の厚さというか、熱意をひしひしと感じたものです。 −で、成程、武田惣角は北海道を回って大東流を広めていた時期があるのね。 その時一緒に回っていた弟子が「トロツキー」にも出てた植芝盛平で。 そもそも植芝からしてが、紋別の旅館で武田惣角に教えを受けたのが 始まりらしいし。加納みたいな男も居たかも知れない・・・ ・「G20」誌の4号に安彦氏へのインタビュー記事がありまして、作者の 最近のスタンスとか、その辺を可成り詳しく語って居られて興味深かったですよ。 安彦ファンの諸兄は今のうちに押さえておくが吉でしょう。 ではまた。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/03/29)
安彦良和「我が名はネロ 1」/文藝春秋/1998/11/25 安彦氏の手による古代ローマ風俗、というのも興味深い。 p56で、ちゃんと寝台に寝そべって食事している風景とかみると、 妙に記号的で面白かったりするんだけど・・ホントにあんな風に 食ってたのかねえ。胃にもたれそう。 ギリシア風俗に関しては、何と言っても「アリオン」が有るわけで ここ十余年大きく日本古代史に寄っていたカーブが、一巡りして またギリシア・ローマへと還ってきたと言う事なのかも知れない。 描かれる物語は呆れるほど「いつもと同じ」であり、それはまた 人類の歴史が何処を切り取っても類型に過ぎないことをも意味するか。 父殺し、母親との関係、友の裏切り、権力によって蝕まれていく無垢な心・・ あとは安彦漫画お約束の、筋肉と筋肉がぶつかり合う格闘シーンを バランス良く配置して、ハイ出来上がり、という。 「ネロ」、とはつまりあの暴君ネロのこと。 ネロ・カエサル・アウグストゥスゲルマニクス。キリスト教の最大の敵。 物語は彼の父が死に、彼がインペラトール(最高司令官)となるところから 始まる。権力を得て変わっていくネロ、そしてそれに絡んでくるべき キリスト教・・・の姿はまだ薄い。 今巻は兎に角ローマ生活の狂気ぶりに重点がある様だ。 宮廷の、そして社会そのもの躁病的な雰囲気の中で、彼の精神も又 表層だけで思考しているような一種の危うさを持って描かれている。 例えばP61でオイディプス王を暗唱する彼の描写は、殆ど手塚漫画の 狂気の描写と同じだ。・・・この作品を読んでいると、手塚漫画の影響が (今頃になって)色濃く出ているような気がしてならない。 ネロのその感情の不安定さ・揺れを表す、その表情の豊かさは 特筆に値する。ネロの顔は、正統安彦主人公キャラの流れをくんで 端正だが、その表情は非常に良く動く。目、口、眉が呆れるほど ダイナミックに感情を表現し、額に汗、といった漫符まで使って その内なる狂気を表現している。 顔といえば、ネロとその鏡たるレムスの顔が、髪の色だけでなく 顔の作りからして明確に描き分けられているのが興味深い。 遂にこの作者も「主人公顔」を描き分け出したか・・・という。 絵的なことではもう一つ。格闘シーンのあのレムスの身体の淫らさ。 明らかに安彦氏は「意識して」描いている。無論昔からそうだったと言えば そうなんだけど・・・あのしつこいまでの裸体/筋肉/乳首描写をみていると、 どーにもこの人の趣味を・・・いやいや・・・ ネロの持つ狂躁的な性格が、ローマそのものの持つ病 (と言ってしまって良いのかどうか・・)と呼応している処に注目したい。 巻末の作者言にもある「ないものはなにもない」都市ローマ。 キリスト教的道徳観念以外のものは全て揃えたこの都市で 「道徳観念無き飽食の時代」に生きる人間の精神をどう描くか・・・ これは現代日本のソレを描くことと同義だと作者は言う。 表層的に人生を送っているローマ人(パンと剣闘)を、その 宿命のライバルであるキリスト教的道徳観念が如何にうち砕いていくか・・・ それは果たして歴史の必然だったのか・・・どうもこの物語は そういう辺りに主題を置いて展開して行くらしい。かなり面白げ。 久々に安彦歴史漫画の傑作となりそうな予感もする。 これまた次巻を心待ちにするものである。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/02/15)
安彦良和「王道の狗 2」/講談社/1998/10/09 ・・・「自由民権運動」って知ってるかい? かつて確かに存在し、だが今では日本史を選択した学生か 研究者以外はすっかりその存在を忘れてしまっている (んじゃないかという。ワタシは忘れてました。世界史選択) この「運動」を、「その後」を描くことで浮き彫りにしようと言う −のがこの作品の「テーマの一つ」だ。 巻末、松本健一との対談での 「個人個人がどう生きたかという、イデオロギーを交えない見方が大事になる」 という言葉にも見られるように、「事件のその後」の人の生き様、を執拗に描く。 今巻では、秩父事件の「後日談」として生き続けていた飯塚森蔵が現れ 飯塚が戦線から消えた「その後」が加納の口から語られる。 自由党の武闘路線とその放棄、その後に残された者達の末路。 「戦争」は一度始めてしまうと、本当に停めるのが難しいのだよな・・・ 特にイデオロギーからのそれは。 「どうでも死人の山をつくらんことにはおさまらん」のである。 「みんなどうかしていた」という大阪事件(朝鮮の要人を殺して日本の政治を 変える−狂気の沙汰だ)では、大井憲太郎の滅茶苦茶さぶりの描写が 「今こそ起て!国民っ!」で、どうにもギレン状態。盲目化したギレンと言うか。 で、「このままでホントにいいのか・・」と悩みながらも「エライ人達も 反対しないのだから」と無理矢理思考停止して武闘に身を投じる加納。 この「いかにもありそう」という嫌なリアルさ。そして事態は最悪の結果に− この「なぜだ!?なぜ逃げた!?」という後悔の気分がもう! 彼は、だからこそ、「王道の狗」、狗になりたいのだ。イヌに。 彼はまだ、イヌとしての本望を了えてはいない。 「まだなにかがしたいんです。」 「正しいと思っていたことが本当に正しかったと信じられるなにかを!」 この気持ち、解り過ぎる。よくあるアレだ、「俺の戦争は、まだ終わっちゃいねえ・・」 −そして、共に強制労働から逃げた風間との決別。風間のキャラも 本当にいい味出している。完成度高し。這いずってでも、泥をすすってでも 成り上がっていこうという意志のある男。こういう激しいキャラもいい。 「仁義に欠くる者は禽獣の類じゃきに 王道は往けん・・」 果たして、加納周助はこの次どういった行動に出るのか。 次はいよいよ「彼の番」であろう。 −ルサンチマンである彼等が、つまり 「昏い恨みを抱いて明治という時代を生き続けなければならなかった」彼等が どう生きてゆくのか・・・興味は尽きない。 本当に次巻が待たれるのである。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/02/14)
安彦良和「王道の狗 1」/講談社/1998/06/09 久々に安彦氏の「厚い」単行本が出た。 舞台は明治の北海道。 「石狩道路」建設現場から脱走した囚人の風間一太郎と加納周介。 どちらも元を辿れば「自由党の狗」である。 この壮士二人は北海道の原野をさまよい、アイヌの狩人ニシテに助けられる。 ニシテと共に湧別浜(サロマ湖のあたり)まで来た彼等は、 そこで大東流合気柔術家・武田惣角と出会うのであった− 虐げられたアイヌの描写や針葉樹に覆われた北海道の山野の描写は 流石に北海道出身作家の面目約如と言うところかも知れない。 今まで北海道そのものについて作者が言及してきたことは無かったと思うが いよいよその歴史を我々の前に広げて見せてくれる−のだろうか? 巻末の雰囲気からして、物語はどちらかというと「武術モノ」に傾いても 行きそうだけれど、それを主軸にしても、「歴史」を語る事は可能だし・・・ 主人公キャラの顔の描き分けが全く出来ないことで有名な安彦氏。 今回二人の主人公(或いは加納が主人公か)は見事に同じ顔である。 勿論その分性格には明確な差を持たせて有って、それが表情に出ている間は どうにかこうにか区別が付くが・・・ 「トロツキー」でも、その合気柔術アクションに対する志向が 明確に現れていたが、更にこの作品ではそれが単なる物語の道具ではなく 物語の主軸として展開していく様で、楽しみなのである。 ・・・然し正直明治以降の近代日本史はさっぱりです。 高校の時世界史だったし。あー、やっぱりちゃんと維新以後の勉強を しておかないとなぁ・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (980629)
安彦良和「虹色のトロツキー 第8集」/潮出版社/1997/1/31 然しこういう終わり方するか。「トロツキー」。 ヴィナス戦記かい。大長編でいいから「最後まで」描いてくれよう。 確かに残虐な歴史だけど。でも、でもさ・・・ 「これが描けるのは安彦良和だけ」なんだぜ・・・ 他の人間が同じレベルで描こうとすれば、其処へ至るまでの勉強を 何十年も続けなくてはならない・・・ 何にしても、ウムボルトは生きないと。安彦漫画の主人公ならば。と、思う・・・ どんなにボロボロになっても生きて欲しい。 生き続けて、「その後」を見続けるのは、しかし「ナムジ」でやりすぎてしまったか。 生き続けるとしても、ウムボルトはどうするべきなのか。 民族主義者になるべきだったのかも。 「日本人」であることを捨てられなかったのか。 そもそも「戦争」ってのは何なのか。過去形じゃなく。死んだ中尉を前に ウムボルトは言う。 「人が死んでもそれが当たり前なほど大事なことなんて、  世の中に そんなには ないと思いませんか!?」 ・・・それを自覚出来ない時代。 年末年始、「映像の世紀」「シンドラーのリスト」で脳があっちだったし、 最近読んでた本も殆どは1930−40年代日本のだったし−で、 脳の半分以上が「あっち」行っちゃってて、 そのせいもあってこー・・・考える。 こういう状況での正義ってのは一体何なのだ(せめて麗花を幸せに してやってくれれば!)。 パラダイムの違いっていうのかしら。戦争行為を熱く押し進めた 当時の日本人の言葉は今読むと本当に狂気めいて見える。 確かに、この「トロツキー」8巻末にある安彦氏の言葉を借りれば 「行為の無自覚さを責めるに足る了見を、  明らかに今日の我々は持ち合わせてはいない。」 のは認めるが。 個人の思想も、大凡は時代性と言うやつに支配されてるのだよな。 ウムボルトも。 しかし、ああ。このラストは・・・ ここ数年、ずっと読者を牽引する力を持ち続けた傑作だっただけに、 このノモンハンで、キャラクターの死、によって終わられるのはたまらない。 物語には結末を求めてしまうものだ・・・「美しいが、迷惑な形式」てやつ。 ・・・まあ、「後は各自で歴史の教科書読みなさい」って事なんでしょうね。 少し時間も出来たし、「教科書」も読んでみるかしらん。 なんか良い「満州国物」が有ればお教え下さい。 ではまた。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (970202)
安彦良和「虹色のトロツキー・7集」潮出版社/1996/6/15 とりあえず面白い。 ノモンハンあたりからもう展開も泥沼化している訳ですが(特に主人公が展開に 飲まれてしまった)、それでもちゃんと展開を掴めるように描けるのが安彦氏の 凄い所だ・・ 今巻の注目は野田少佐。 彼の造形を見て思い出すのは当然「ヴィナス戦記」のタコオヤジ。 いや・・あのセリフ回しが好きで・・・ 「だがそいつとのせめぎ会いは血の奥底を熱くするぞ」 「俺が与えてやれる物は力だ!」 「燃える、命のカタマリにな・・・」 ああいう奴を思い浮かべていたのですが、結構違う感じ。 リッパな軍人、とは・・・ 麗花の人格は完全に治ることは無いのではないか・・・それもまた見事に描写する。 彼女のかつての姿を知っているだけに、哀しくて・・辛いものだ・・・ 「ジャムツに聞いてみないと・・・」ああ・・・ 共産による「洗脳」技術は強烈だったと聞く。 しかしこのドロドロした男女関係はもう・・・安彦だなぁ・・と・・・ 安彦漫画は矢張り違う。 もうアニメ界に帰ってこないだろう、という事ですが、 実はせめてあと一作、演出などしていただければサ・・・ 今見ると「ヴィナス」もスゲェ良いんですよね・・・また見たいな・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (960709)
安彦良和「三河物語」中央公論社1300円/1995 漫画日本の古典シリーズの23巻。 といって三河物語そのものの漫画化ではなく 作者の大久保彦左衛門と一心太助を描く。 大久保彦左衛門のキャラクター造形がすばらしい。 というか「あの」彦左衛門をここまで造り描ききるとは。 つまらない、わかりにくい、老人の繰り言、と言われる(らしい)三河物語を 読みとき、文献にあたり、彦左衛門のキャラクターや太助を創造していく過程が 巻末にかかれているのですが、こういうやり方が現在の氏の創作活動の 主ではないかしらと思う。 武士のツッパリ、汚いだましあい、を描いた作品は少なくないですが これもそう。一般人の目から見てサムライとは・・という しかしこの「漫画日本の古典」シリーズは濃いメンバーが揃っていて でもこれって以前石ノ森氏がやった「萬画」宣言のときのメンバーでは? 気のせい?うがちすぎかしら。 坂田靖子の「堤中納言物語」が今から楽しみの @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
安彦良和「虹色のトロツキー・6集」潮出版社/1995 お、もう出たか。 いや相変わらず興奮させてくれる。 面白いよなぁ。こんな漫画よく描くよな。 さて、安江大佐のもと、「偽」トロツキーの審議の為、 また、「犬に」なる為に、上海へやってくるウムボルト。 あああ魔都上海!でも描写はあくまで淡々としていてそれもよし。 上海で再び川島芳子と出会うウムボルト。川島芳子と言えば李香蘭である。 「知ってるつもり(ダカラホントハヨクシラナイ)」で容れた中途半端な知識・・ でも哀しい運命を臭わして良し。 さて、川島芳子の開いたパーティで、正珠爾礼布と、その秘書と成った ジャムツ(王と呼んでくれ、という)と再開する。 いや相変わらず狂信者的な危ない奴だ。 その夜、謎の刺客に襲われるウムボルト。どうやら正珠爾礼布の仕掛けたものらしい。 身の危険と、偽トロツキーの死によって用を果たしたウムボルトは 満州へ帰され、或いは建国大学に復学せんとする。 ところが、再びジャムツと遭遇、ジャムツによって麗花がジャムツのもとに居ることを 知らされる。安彦キャラのパターンで、女が弱点のウムボルトは、馬鹿と知りつつ ジャムツについていくのであった。そこで出会った麗花は、しかし「思想矯正」を受け 殆ど廃人となっていた・・・ あージャムツそれぢゃウムボルトにケンカ売ってるのと同じだぜ? まぁ安彦「敵」キャラのパターン(クルドとかさ・・)とは言え。 という所で、続く。 巻末の安江弘夫氏の文章が興味深かったです。笑えるし。 さて 石原将軍は本当に復活するのだろうか。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
安彦良和「虹色のトロツキー・5集」潮出版社/1995 爆笑。 連載の方は読んでないんですが 麗花とウムボルトって兄妹だったりしてな。 安彦〜・・ ところで作中にやたらと出てくるようになった蒙古語だけど、 正しいのかしら? 以前描かれた名作「クルドの星」の言葉(トルコ語?)も正しいのかどうか 知らないし・・・ まーいいか。どうせわかんないしさ。 しかし正珠爾礼布ジョンジュルジャップも格好いいなぁ。P198−199の下りなんか もうたまらんですわ。 あとこの作品で重要な役割を果たしている「合気道」だが・・どんなものなのか 一度きちんと調べてみようかしらと思う。思うだけ。 武道というか・・いいよね。なんか。俺も一つくらい格闘技を学んでみたいと思うよ。 人を殺せる武道を・・・ それ程にこの漫画は「武勇もの」としても読めるのだ。そのへんが面白いよね。 流石安彦というべき。「燃える命のカタマリ」だぜ!鍛えろ!鍛えろ! 勿論漫画そのもののテーマからして、非常に面白い。 こんなに面白い漫画はそうは無いよ。 買って損無し。いやホントに。 辻参謀の独断専行、石原の制止ももはや届かず・・・ 辻はいいキャラだと思う。わかりやすいし。問題は甘粕。 「釣りでもやって・・」と言って中央を退いてから一体今まで何をしていたのか・・ 他の漫画とかでも甘粕という人物はたいてい強烈な悪人として描かれているが 僕は彼のことも良く知らないので何とも・・勉強しなくてはなぁ。 いい人名辞典無いですかね? ちゃんと調べて当たらないと一応「この漫画はフィクションです・・」だからさ。 だれか「虹色のトロツキーデータブック」とか「よくわかる虹トロ」とか出さない? 調べに図書館行くのも面倒くさい今日この頃・・だって暑いんだもんな。 久々に1巻から通して読んでみてますますハマってしまった @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
安彦良和「安東 ANTON 三」学研 800円/1995 例のわけわからんシリーズの完結。 正直ちっとも面白くなかった。 安彦漫画の神髄はやはり「熱血バカ」だと思うのですが どうにもストーリー展開メインでキャラクターに魅力がない・・・ 或いは、とも思う。これは本人による「安彦作品のパロディ」なのでは。 事実パロディめかした描写は多い・・ノリの軽さは安彦らしいか。 にしても。 あまりにキャラクターの掘り下げが(特に主人公の星若)無い。 脇キャラ達の方がよほど思い入れし易い・・・のは安彦キャラの持つ わかりやすいデザインのせいか・・主人公はいつもと同じだし。 シリーズ全三作、おすめは・・しません。 これ読むよりは「クルドの星」とか「ヴィナス戦記」とか とくに「クルド」は今読んでも凄い漫画だ・・ああいうのもっと描いて欲しい・・ 最近はホントに歴史一辺倒で・・・すっかり歴史漫画家。 それはそれでいいのですが・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
安彦良和「古事記巻之二 神武 第五部」徳間書店1200円/1995 やっと買えた・・・無かったのだもの。 さて。「神武」の完結ですが。 もう「漫画」としての楽しみよりも考古学的というか 古代史趣味の方に志向が傾いているようですね。 いやもうこれは趣味という段階では無いか。 ヒミコも死んだ。ツノミも死んだ。 いよいよこれで「ナムジ」からのキャラクター達も 一掃された訳だ。 しかしまだこの古事記物語は続く予定という。 崇神期、景行期、神功期・・ 安彦氏の夢は尽きない。 こうなれば徳間にはとことんまでつきあって欲しいモノだ。 うーん。 「活劇」が無いのがなんとも残念でした。 安彦漫画にはあくまでも熱血していて欲しいモノだ。 そういえばマンガ日本の歴史だっけかの新刊は安彦が描くらしい。 買い、かしら。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@

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