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ウエダハジメ


Hajime Ueda

ウエダハジメ「Qコちゃん THE地球侵略少女−1」/講談社/2003/07/23

#9の扉に曰く――

「お国大破産の大騒ぎの中
 カワイイウサちゃんマークのファシスト政党が
 さりげなく一党独裁大陸にナゾの大出兵
 半端な職の人はみんな持って行かれて
 ナゼか帰って来ない。内地は内地で
 国勢を省みないゴーカイな粛正の嵐
 腐った政、官、財、○○、××、その他ギロチン行き
 ちょっとした内戦もあって人口大・激・減
 都心の空気もキレイになった
 特区のラッキーな子供たちは
 スクスク育ってる」

この近未来世界では、舞台たる日本はつまりそういう状態になっている。

所謂、”僕らのよく知ってる”、”あの”、”戦後”世界だ。

カタストロフの後のごたごた期、最初の一撃で死ぬ連中はみんな死んでしまい、
今は残された人々だけが生きている、が、まだ戦いは続いている。
つまりエヴァ?でも作品世界の発する臭いは(感触は)遙かに富野イズムに近い。

一年戦争が背骨にあって、エヴァで衝撃を受けた僕ら世代(20代後半〜30代?)
には(絵柄に好き嫌いはあっても)、肌で理解できる世界だと思う。

「お人形さん」と呼称される少女型ロボットと、掃除屋とされる「宇宙人」が
居て、それぞれに(人類には見えない思惑、で?)戦っている。「お人形さん」の
放つ「純粋爆弾(ピュア爆)」は、全てを破壊し尽くし、爆心地を自然豊かな
環境に変えてしまう「後味の良い爆弾」だ。前述の大陸でいろいろやってた連中は、
このピュア爆の情報をお人形さんから手に入れ、満州を相手にそれを乱発、そこへ
「宇宙人」がやってきて敵対し出した、らしい。

で、まあそういう作品世界を背景に、恐らくはそのパイロットとして産み出された
姉弟(姉は失敗だった?)を、搭乗機「Qコちゃん」が迎えに来るのが冒頭、という
言わば搭乗型ロボットモノの王道の「導入」な訳だけど、一読した限りでは見えて
こない情報がタップリと仕込まれていて、読み返すとこれが実に「オイシイ」のだ。

いやもう何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も読める漫画。まだ読んでる。
つまりそれだけ「設定」がしっかりしていて、その匂わせ方が巧い、という事か。

裏でちゃんとした設定があって、その一部だけを見せていても、そのキャラクターに
分厚さが感じられる。錯覚かもしれないけど、そう「感じさせる」ことができる。
キングゲイナーとかそうでしょ。見えないところでもドラマを感じさせる様な、
ああいう感じ。

兎に角台詞の使い方が巧い。富野の直系というか、「”解っている”連中の間で
交わされる、主要な情報の欠落した会話の断片」で全体の雰囲気を匂わせる巧さは
実にイイ感じで読者を引き込んでくれる。

仕草や表情、そして最小限の台詞で想像させる巧さ。ちょっとズレた所で細かい
演技をして見せるところ(例えばキリオが友達の前でわざとQコのハッチを開け
させて、自分が乗ってるんだ、って事を見せる下り)なんかは本当に富野的だ。

絵の「巧さ」もスゴイ。この絵の巧さっていうのは、もう一目見てズキーン☆と来て
しまうタイプのモノだと思うんだけど、最近どんどん巧くなってる気がする。
表情や線の選択の繊細さは、読み込めば読み込む程に感心させられてしまう。

ただこの手の作風では時に許されてしまうのだけど「なんだかよくわからないまま
展開するだけ展開して、風呂敷を畳まずに終わる」っていうのは、出来れば止めて
欲しい。フリクリのこともあるし、ああいう投げっぱなしは、或いは美しいのかも
しれないけど、心意気としては、是非、展開した風呂敷を畳む腕もあるのだ、って
所を見せて欲しいのだ。この作品はエヴァとは違うんだぜ、と、さ。

ともあれ、もっともっと話題になって良いマンガ。続巻に期待したい。
@@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
(03/09/06)

ウエダハジメ「フリクリ 2」/講談社/2001/08/23 「男の子はね父親を殺していいんだよ」 もうウエダハジメ節炸裂爆発ファイヤー!でスゴイの一言。 描かれる人間関係の、危うく、また微妙な「もたれ合い」の空気。 それぞれの人生観を、押しつけるわけでなく、ただ自分の為に、或いは 他人を許すために語る。 「空爆の障害は想像力だね」 他者を「理解」することは決して出来ない、が、他者を他者として認識して 「関係」の中でもたれ合うことは出来る。孤独は孤独として、生きていくしか、 ない。 大胆な翻案(ターミナルコアの造形、サメジーの立ち位置、「誰にも秘密」の 状況、カツアゲ、被害描写、じいちゃんの存在等々)が、全てウエダハジメの 脳を通して描く「フリクリ」に必要充分なものとなっていて、ぱっと見、全く 違う作品になっているのに、ちゃんと「フリクリ」になっている、という。 こういうマンガが存在し得る事に、奇跡の様なモノを感じる。つーか編集者 エライ。良くやった。 「フリクリ」という作品(アニメ)に対しては実は其程感動を覚える事もなく。 作画は凄いかも、話はSFかも、とか思ったけど、だから何?っていうのが正直な 所だった。感情をドライブする部分が決定的に欠如していて、まあそれがこの 「フリクリ」のスタイルでも有った訳だけど、派手な画面や謎めいた設定を乗り 越えてその下を「読みとる」のは、正直イヤだった。面倒だってのもあるし、 何だか腹が立ったん。そんな訳で、アニメでも小説でも今ひとつピンと来な かったこの作品の、感情的にコアな部分が、或いはこのマンガで補完できた、 かも。……つまりは自分で解釈するのが面倒だから、ウエダ氏の「それ」に 乗っかっただけ、なんだけどさ。 絵的な魅力は相変わらず。暴力的な勢いを内包しつつ、然し非常に洗練された 「マンガ絵」。他に類を見ない強烈な個性。「このように!」は兎も角、あの キスシーンの等身大なエロティシズム。ざっと描いてるみたいで、その実物凄い 確信を持ってあの「舌」を描いてるなーとか思うのだった。或いは見開きの ビリジアンなニナモの、あの底知れぬ魅力はどうだ。特にブルマ。 いやニナモは誰が描いてもカワイイ(はしもとしん氏のニナモ祭りは凄かった) んだけど、ウエダ描くニナモのあの目つきとか、ちょっと他に無いよなーとか。 まーしかしアレですよ、このラスト。決定的に「違う」のはこのラストの空気。 しがらみのない、純粋な感情としての悲しさ。「去ってしまった」「終わって しまった」事に対する「切ない哀しさ(寂しさ)そのもの」を絵にした様な、 あのラスト。何というか…少年が少年で在るが故の、純粋な痛み。 「哀しみを乗り越えて成長する」未来などここには微塵も存在しない。 少年の人生に「その後」は無い。あるのは、今までの記憶と、今この瞬間の 気持ちだけ。半ズボンの寒さ、膝小僧や手のひらを擦りむいた感触、はがれた 爪の違和感、バイクの重さ、冬枯れた風景の中に独り居る自分。寒さや痛みの 体感記憶が蘇って、ナオ太の気持ちをダイレクトに「体感」させる。 アニメの「そして僕たちは少し大人になって、日常は続く」的ラストでは 得られなかった、何と言ったら良いのか、キッパリとした、潔いラストシーン だった(あの猫の大群の意味する所はよく分かってないけど)。非常に美しい モノを見た、気が、する。 原作?で描かれたハル子との放浪生活描写は無い。にも関わらずハル子に対する ナオ太の感情は理解できる。でもそれは既に僕がアニメや小説に触れてしまって いたからかとは思う。その辺、アニメ及び小説を読んでしまった後でこのマンガ を読んでいるので、「マンガ単体」でどこまで「成り立って」いるのかは不明。 とゆーか、読めんわな。これだけでは何も。 この「漫画家」の存在自体、原典有ってのアニパロ作家(と言ってしまうが)で あるという所を抜きにしては語れないんで、「正しい読み方」としては、矢張り 最低でもアニメは見て置きたい。その上での、「ぺけらんぺけらんおろろろろ」 なん。 この作家の最大の魅力は、その「独自の解釈」にこそある様で、既存の作品の上で 展開してこそ輝く上田大王の「センス」を僕(等)は望んでいる。あー、つまり 「上田解釈による『フリクリ』」を読む面白さ、というかさ。それがこの単行本の 魅力よ。あ、いやだからってウエダ完全オリジナル作品が読みたくない訳ではない のよ。ないのだけど、取り敢えず今は過去に出された同人誌作品(富野作品の ”上田解釈”シリーズとでも言うか)の単行本化を切に願う。ホントに。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (01/10/16)
ウエダハジメ「フリクリ 1」/講談社/2000/10/23 ・・・すごいことなんて ない ただ あたりまえのこと しか おこらない どこまでも ひろがる 退屈で平坦な世界 上田ハジメだったり上田創だったり上田大王様だったりウエダハジメだったり。 コミケとか同人とかに縁薄い一般マンガ読みにとって、その名前は伝説というか 栄光というか秘密というか。ときどきちらりと見せて貰っては、その異才に ガンガンと揺さぶられて。メージュの「人生綱渡り」でのヒゲハガキを嘗める 様に読み返し、スゲエやっぱこの人無茶苦茶上手いわ!とか思ってた・・・らば 雑誌で読めるようになって・・・・そして、この単行本。 物語そのものが目指しているところは多分原作に当たるアニメの方と同じ。 まそれはアタリマエか。なのでそっちに関する語りはアニメの方で。 兎に角ウエダハジメという異才に思う存分触れられる快感。 マンガ、というのは、描き手の意思がそのまま反映される世界だ。背景の草一本 壁のひび割れ一つ、キャラクターの姿勢や表情や何もかも、それら全ては作者の 意識の下に置かれている・・・というのをつくづく感じる。 ・・・でも絵っていうのはそんなに素直なもんでもなくて・・・絵そのものに 作者が縛られる時もある。手法に縛られる、というか。 既に在る記号を組み合わせ、既にあるコマ割りのフォーマットに流し込んで 「創作」してみると解るが、それはもうただの「作業」でしかない。 自分が求める「絵」が既存のモノである場合、ネーム完成以後、完成に向けての 「作業」は完全に「絵」に縛られたものだ。 このマンガは、その意味であまりに自由なのだ。自由、というか、作者が絵を 自分の制御下に置いている感じ。表現手段に縛られずに、道具として使いこなして いる。枠線一つとっても何らかの意思なり機能なりを感じさせるのだ。 勿論マンガが本来持っている「機能」を十分意識した画面作りなんだけど、それが 「突き抜けている」というか・・・見開き大ゴマの使い方の巧さが一つの特徴かも。 パワフル且つ爽快だ。いたずらに技法に走ってマンガの形をした何だか良く わからないもの(ガロ・ビーム・CUE・etc)には決してならず、読んでまずその エンタティメント性に素直に喜べる。でもやってることは強烈。 繰り返し読んでいるうちに、その枠線や流線一本一本に込められた作者の意図の パターンが読みとれる・・・様な気がしてくる。ざっと流し読みすると 気がつかないような細かいことをぎっしりとやっている様な。 長年の感性の積み重ねの結果、すっと引かれた一本の線。そういう感じ。 筆の速度、かなあ。結局。「勢い」がそのまま紙とインクに変換されて作品に なっている。見開きの勢い。「いただきマンモス!!!」のあの筆使い。 緻密な仕事かもしれないけど、でも勢いがある。アクション・ペインティング っつーか・・・「勢い」っていうのは、丁寧さより重要な要素だったりするん だけど、でもこの作品は勢いがあってなお、決して粗雑には見えない。 戦闘シーンの一見何だか解らない絵も、見ていると「ああそうか!」という感じ。 この辺、にてるよ。アニメに。 このまま商業誌から去られてしまうのを怖れる。みんな買え! この勢いで何とか過去の作品群も単行本化されたい。或いはマニアの人よ せめて一度読ませて呉れまいか。ますます読みたくなってきた。いつ頃から 「こう」なのか、どういう過程を経て「こう」なってしまったのか・・・・ いや、心酔。 つーか「ほらあんたら移動教室」のニナモリ萌えー。ニナモリニナモリニナモ・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (00/11/22)
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