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富沢ひとし



富沢ひとし「エイリアン9エミュレイターズ」/秋田書店/2003/06/15

なんかびっくりする位「そのまんま」な「続き」話だった。
いや、もちろん「エイリアン9」では、あったのだ。絵柄も手触りも。
ただ、印象の散らばり具合といい、正直無印の完成度には及ばない、と思う。
なんて言うか、「ああ、いつものアレね」みたいな感じ。

読んでいけば、それぞれの描写の裏にある「設定」に興奮することは可能。くみで
あるところのボウグ、不完全な共生体、或いは第十世代?の存在の微妙さとか。

くみがゆりを欲しているのか、不完全な融合故寿命を迎えつつある共生失敗の
ボウグが共生相手としてのゆりを欲しているのか……「本能に逆らえない」と
いうレベルでは同じか。既にその「身体」を構成しているのが”細胞ジェル”で
ある以上、「誰の身体」という「もの」でもない。その上に共生する自我達……


ドリル族の「共生」の究極が語られている、のであろう「ぷりっと三人娘」の絵も
ナカナカ素敵ではあった。


だがもう僕は「あの世界」を知ってしまっている。共生型知性体の支配するあの
平行宇宙を。ただ、「それ」が当たり前に読めるようになった、というのは、数年前
なら全く考えられないことだった訳で、その意味(僕の上では)富沢作品による
「教育」はしっかり為されたことになる。

で「ミルクロ」であそこまで行ってしまって、その後でまだ、あれを越える痛み、
恐怖、驚愕、「センスオブワンダー」を語れるかというと……読者は慣れるのだ。
どんな事態にも。

「ほら川村だ 生きてるぞ」


虚無的な気分になってしまった。

眉毛の中でイエローナイフ繁殖させてる遠峰には参ったけど
@@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
(03/06/11)

富沢ひとし「プロペラ天国」/集英社/2001/09/24 最初「ミルクロ」的メタ宇宙解釈かと思って読んでたんだけど、もっとこれは シンプルな話の様だ。全滅戦争が起きて、数十億人が死んだ。生き残った約 二万の人類に、二度とこのような愚行を繰り返させないために、戦争中兵器と して使用された「合成人間」達によって、「普通人間」の再教育プログラムが 行われている。……そういう世界。合成人間達の中でも、プロペラタイプの 「戦闘合成人間」は、簡単に「普通人間」を洗脳できる。「はるかぜ」 プロジェクト名「恋愛探偵組白書」 再教育プログラムのシナリオは「恋愛探偵組」活動という形で与えられているが、 そのシナリオ(オリジナルの「恋愛探偵組白書」)が達成された結果、人類が 「利口」になってしまうと、彼ら合成人間の存在価値は失われる(再教育の道具 としても、また兵器としても)。フランケンシュタインコンプレックスの裏返しの 様に、シナリオが予定通りに進みそうになるとリブートをかける合成人間達。 オリジナルの「恋愛探偵組白書」を改訂し、合成人間が生き残る為の方策を 探している。シナリオは決まっていて、誰が何処でどういう行動に出るか、も 織り込み済みだから、邪魔するのは簡単だ。――の筈だ。 「恋愛探偵組白書は、本当に普通人間を教育する為のものなのか」 合成人間達も言ってるけど、結局人類の知性を超えて完成された機械が人間を 必要とする理由、を考えるとき「進化したい」(攻殻でいう「死とゆらぎ」) っていうのしか思いつかない(後は「普通人間が好き」っていう感情)よね。 俺解釈で行くと、まー誰が計画したのかは知らないけど、人類補完計画っつーか、 大絶滅の悲劇を乗り越えて生き延びさせるための、麻痺(記憶操作)と補填 (合成人間達による)、人類再生プロセスからは最後まで逃れられてない訳で、 所詮ロボットはロボットさー、みたいな。冒頭5カ所で再教育が行われている らしい事も見え隠れするけど……人類再生という「動機」を維持し、その プロジェクト終了コードを隠す事で生き延びようってハラなんだろうけど、 何となく絶望感は無い気がする。遅かれ早かれ人類は、子鐘はそのループを 抜けるだろう、と。あのラストにはそう感じたんだけど、どうだろう。 まーシンプルな読みで行くと、「私の人生だってもしかしたら斯うやって続け られているのかも」っていう。作中で「子鐘」として生きる少女は、リブートの 繰り返しの中でも成長している。ラスト、子糸(AHX-00シリーズ、恋愛探偵組 白書オリジナルに忠実な、恐らくはプロジェクト終了の判定者)の存在が失われた 世界で、子糸の様に笑う彼女には、もうその「外側」を見ることは出来ないかも 知れない……と思いきや、そこにはまた「恋愛探偵組白書」が…… で、まあここからは勝手な連想なんだけど―― 自分が社会による洗脳の枠を超えた「外側」の存在を「感じる」事が出来るか どうか、という事、なんだと思う。本当に洗脳されてしまったら、感づく事さえ 無理なのかなー、と。いや、SFを読むって言うのは、そう言うことだと思うのよ。 「神」と対峙し、時に神をも狩りだそうという。古びた言葉で言うなら 「常識の枠を超えた発想」。志の高さ、と言っても良い。それが魅力なん。 ある日突然、来る訳よ。謎の人物が「あなたは実は今まで夢を見ていました。 現実はこんなです」ってさ。実は栄養パイプに繋がれて変な液体に漬け込まれて ました、とか。マトリックス?実は卵子の状態で冷凍させられてて、夢を見させ られてました、とか。 そういう切り返しを、今までとは違う切り口で見せてくれた作品――だと 思ってる。断言はできない。多分まだまだ隠された、というか、気付いてない ヒントがまだまだあるだろうって気はしてる。 取り敢えず、今回はここまでで。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (01/12/10)
富沢ひとし「ミルククローゼット 2」/講談社/2000/12/22 ・・・・うう、わかんねー!と頭を抱えて叫びたくなる。 いや、何となくは解るんだ、何となくは。 アフタヌーンの新しいやつも読んだし。でもわかんない。 いい加減に書いてるとは思えないんだよね。 情報量の制御が効いてるタイプの漫画・・・だと思いたい。 以下勝手に妄想。正答じゃないと思いますが。 「この子がいれば宇宙は守られる」 問題は、守られるのが「誰の」宇宙なのか、という事で。 「しっぽ」な寄生生命が人間と仲良くする「擬態」をかまして人間に寄生して 「彼等の」宇宙を守ろうとする話、だと読んでみる。人間は主人公じゃない。 つーかもう滅びたし。後は「第二段階」の餌という訳か。とするとこれは 「エイリアン9の焼き直し」ではなくむしろ「エイリアン9の続編」だ。 多分次元侵略が連鎖的に起きているのだろう。「俺の宇宙が一番」とか言ってる 奴が「犯人」か。そういった侵略行為が当たり前なメンタリティ。でも外形こそ 恐ろしく「我々」とは違え、精神構造は似たり寄ったりの様でもある・・・ 思考する生命が無くなったとき宇宙は閉じる、という描写があったけど、とすると 我々(?)の居るこの「+15宇宙」には人類以外の知的生命体は居ないのだろうか? 或いはあそこで閉じた「+15宇宙」は人間の思考によって支えられた概念としての 「宇宙」なのか。宇宙が閉じる光景を見るのは2回目だ、というリーズル。 彼女は一度別の宇宙が閉じるのを見ているのだ。リーズル症候群の名付けの元と なったと思われるが、彼女は一体どこであの「しっぽ」達に協力するように なったのか。(彼女には「しっぽ」は無い)あのハカセとの関係は。エヴァ調 思わせぶりな会話の真意は。以前閉じてしまったのはハカセの宇宙なのか。 なぜミルク隊が居るにも関わらず宇宙は閉じたのか(それはもう葉菜がこの宇宙の 「人類」ではないから・・・)・・・ ・・・あーでも今回は「謎解き」がありそうなんだ。連載見てると。だから無駄な 謎解きごっこはまたにします。取り敢えず読んだよ、という感じで。 以前の様に漫画表現そのものの「違和感」が皮膚感覚で語られる事も無くなって、 果たしてこの先どうなってしまうのかなぁ、とか思ってたけど、より凄い方向に 向かっている気がする。独特の表現技法は、その作品世界を描く道具に過ぎない。 そんな感じさえする。完結をまとう。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (01/02/28)
富沢ひとし「ミルククローゼット 1」/講談社/2000/06/23 「エイリアン9」で時代を騒がせた富沢ひとしの最新作がこれ。 「西暦2005年 消える子供 流行」 子供達は親や級友の目の前で突然バラバラに分解され、平行宇宙へ「ジャンプ」 してしまう。リーズル症候群、と名付けられたこの現象は、どうやら子供にだけ 特有の「病気」らしい。最初は治癒可能な一時的な「病気」として描かれてもいる。 「あと20回もジャンプすれば良くなりますよ」。 だが、そのうち帰ってこない子供が増え始める。明確には語られないが、後に クラスの人数が激減したりしている事から、ジャンプしてしまった子供らの殆どが この世界に帰って来られなくなっているらしいことが分かる。どこかで食われたり 餓死したりと、「怖いこと」になっってしまったのか。 主人公やまぐち葉菜(8歳)は、600回以上のジャンプを繰り返しつつも この世界にとどまっている。自分は病気ではないし、もう病院へ行くのはイヤだ と思っているが、ふと気がつくと別世界(それも怖い)に行ってしまう。 そこへ現れた女性にリボンを渡され、今までとは違うジャンプの方法を教えられる。 行きたいところを願ってジャンプすれば、怖いことにはならない、らしい、が−− 禁じられた連続ジャンプの後、元の世界に帰れなくなってしまう。 行方不明になった葉菜を探してきて欲しい、と頼まれた立花たろう(8歳)は、 ジャンプした先で狩人に狩られてしまう。瀕死の彼を見て、共生生物の「みみみ」 は(恐らくは彼の命を救うために)彼と共生するのだった。 (この共生のパターンが凄くて、いったん共生対象を「食って」しまってから、その  構造に自分を共生させた姿、を再構築してみせる、というもの。本体は脊髄の先に  顔を出す。これは果たして共生か?それとも宿主の人格をコピーした  「なりすまし」か?) 復活したたろうは「鼻ゾウ」のスープにつけ込まれて溺死状態となった葉菜を救い だし、しかし瀕死だった彼女も「みみ」と共生することになる。 そうやって「しっぽ付き」としてこの世界に帰ってきた少年少女達を集めて 「行方不明の子供」を連れ帰るべく組織された、と思われるのが(ラストで違う 展開も示唆されるが)リーズル吉田率いるMacrocosmic Invincible Legion of Kids 通称「ミルク隊」である。自在に変形する身体を生かして、異次元の怪物達を やっつけ、子供達を連れ帰る。それぞれの特性を生かした戦いぶりに、葉菜も やがて順応していくのだが・・・ とまあこういうところまでしか分からない。殆ど何も分からない様なものだ。 ・イヤだけどやらなきゃいけない「お仕事」、が異世界の怪物退治 ・リーズル吉田、という「大人の女性」が彼ら子供達を苦境に放り込むのだが  その際有無を言わせない。 ・簡単に訪れる死と蘇生、切り離すことの出来ない共生生物、果たして私は  以前の私のままなのか? 正直「焼き直し」感は否めない。これがこの作者の特性だとしても、あんまりにも 同じ。前作「エイリアン9」のコマ割り技術は継承されたものの、作品を異として しまった事で、その持っていた違和感というか目新しさが薄くなってしまった様な 気がする。 それでもこの「子供の受難」テーマにはそれなりの魅力が有る。作者もまだ描き 足りないのだろう。読む方だってまだ読み足りない。実際あの子供特有の我が儘な 感情描写、あれは凄い。子供にとって「日常」がどれだけしんどいものだったか を思い起こさせて余りある。社会に自分の生き方を合わせづらくて、ホントに 絶望的な気分になったり。 特に、子供である、という理由だけで、年上の人間の言うことには従わざるを 得ない、あの何とも言い難い不満感ってのは子供の本質だよなーと。 「エイリアン9」は、まだ小学校6年生という年齢を対象にして多少コドモならざる 「ヒト」の魂を入れて見せた(特にくみちゃん)分、まだ共感・理解できないでは 無かった。だが今回は全員がゆりちゃんになりかねない。より深いところに 潜っていくようなものだ。我々も深海潜水の準備を怠るまい。 絵の力は相変わらずで、特に異世界の風景描写の力は凄まじい。これだけの画力が 有ればどんな世界だって描いて見せられるだろう。羨ましいことこの上なし。 頭の中に有る風景を、こういう風に紙の上に写し出せることの素晴らしさ。 やっぱこういうのは修行のたまものかねえ。描いて描いて描きまくるしかないのか。 「ジャンプ」のシーン、ああいうレイヤーから薄片に分かれて分解/再構築、 ってのは個人的にはシロマサの「ORION」由来じゃないかなーと思うんだけど もっと前からああいうの有ったんだろうか。かなり生理的に納得できる描写で 巧いなーと思ったものだけど。 えー、てなところで。 物語的には何にも見えてない状況。何がどう展開しているのかさっぱり見えない。 見えないんだけど次回が気になる。成る程この作者は巧い・・・・「種明かし」が (ちゃんとした)SFであってくれることを望みつつ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (00/07/06)
富沢ひとし「エイリアン9 3」/秋田書店/1999/12/10 初読のインパクトが最大級かとも思ったんだけど、 読み返せば読み返すほど、この「奇妙な衝撃」にハマって行く。 でもそれをこうして言葉にするのは・・・正直ためらわれる。 こういう「印象」を自分の言葉に変換しようとするとき 常に自分の限界を感じさせられるんだ。 ワタシの手にはおえない。そう「思わせられる」。 「共生生物」が共生された側に与える影響、ってのを描いたSFは多い。 「寄生獣」や「エフェメラ」の様な寄生、ではなく、他者の意識/記憶との 融合型。かといって「攻殻機動隊」の素子と人形使いの様に、完全に融合して いるわけではなく、それぞれの「個」も存在し続けている・・・らしいところ なんかを見ていると、ダックス(スタートレック・ザ・ネクストジェネレーションズ に出てくる共生生物)を思い出す。より「積極的」ではあるけれど。 共生を受け入れることで得られるメリットは、このドリル族の場合 イマイチ良く解らないんだけど・・・うーん。 共生型の地球外生命体による人類侵略、という物語。 だがこの「侵略」には「戦争」は無い。 小学校で選ばれる「対策係」は、彼等の受け皿として調査、教育、訓練されて 最終的に「ボウグ」と共生関係にはいることでドリル族となる。 拒むことは出来ない。人類に選択の余地は最初から無かった。らしい。 侵略を「受け入れざるを得ない」という現実だけがあり、それは我々が 「そういうもの」として嫌々ながらも受け入れてきた「現実」と 同じレベルで押しつけられてくる。こういう「レベルの錯誤」こそがこの作品の 最大の魅力だ。 読んでいて血も沸かなければ肉も踊らない。 ただ脳だけがキリキリと締め付けられていく感じ。 何というのか・・・神林長平の作品を読む時の様。 作品スタイルは違うけど、脳に「負荷」をかけられる感触は似ている。 「これは、どういう『意味』なんだろう・・・」 作品の表面から読みとれる「展開」の、その薄皮一枚下にある膨大な 「意味」を脳が(勝手に)有りとあらゆる言葉に翻訳していく。恐らくは作者の 意図した以上に、読者はこの作品に刺激され、思考を加速させられる。 一つ一つの会話、表情、仕草にどれだけの意図が込められているのか知らないが それら全てを「意味のある記号」として捉え、抽出し、その意味を探ったり 既存の「物語」に相似形を見いだしたり・・・してはそれを破棄し、 また別の視点から別の解釈を・・・というのを猛烈な勢いでやってしまう。 否が応でもやらされてしまう。「答え」を探そうとする。頭がギリギリする。 答えは出ない。 この作者は本当にこんな作品を描くつもりで描きだしたのだろうか? 設定と言い、描写のベクトルと言い、一つの方向に向けて描かれているのは 明らかだし、そう言う意味では最初から確信的に描かれたものなのだろうけど。 一番表面上のメタファーとして、各和の冒頭に挿入されたファミレスでの「対話」。 「先生、共生する時って どんな感じでした?」 「ちょっと 痛かったかな」 宇宙人との共生も、人と人の繋がりも、同じレベルで語られるという・・・いや、 こういうのは、でもホンの表層でしかない・・様に「読めて」しまうのだ。 ・・・「エヴァ」の時と同じだ。表面に現れている以上の「読み解き」をしてしまう。 教訓めいたもの、あるいは「真実」みたいなものはいくらでも読み出すことが 出来るが、それらは全てこの作品を「鏡」として自分を反射しているに過ぎない、 と言うことも(痛い経験から)知っている・・・つまり、そういう作品。だった。 ワタシにとっては。 一見救いが有るようで、其の実全く救いのないラストがもたらす余韻は ペシミスティックなオチを得意とした70年代日本SFを彷彿とさせた。 ・・・駄目だ。スイマセン。やっぱり無理でした。これ以上書いても何にも 出てきません。また別の機会別の所で、まとめられたらまとめることにします。 最近めっきり作品に負けてしまうことが多くなった @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/12/09)
富沢ひとし「エイリアン9 1」/秋田書店/1999/03/10 富沢ひとし「エイリアン9 2」/秋田書店/1999/07/10 かっぱ横町の飲み屋で某氏の口から初めてその存在を知り、2巻が出た時点で 一気に・・・は無理だったけど(無いんだよ何処にも)何とか購入。 で、こりゃ確かに・・・何というか・・・面白い。 ・・・でも、殊この作品に関してワタシは正直語る言葉を持たないですよ。 何と言ったらいいのか・・・作者が描こうとしている(明らかに「何か」を 描こうとはしている様に思う。非常に濃くて重い「何か」)ものが、自分の中で 明確になってなくて。 SFとして読むならば、つまりこれは「宇宙人の侵略SF」な訳で。 人間各個のレベルで「侵略」していく/されていく感じは、円谷的で 割と懐かしくも有る。 舞台は平成25年頃。1998年10月のファーストコンタクト後、14年が 経過した世界。 第9小学校「エイリアン対策係」(小学生の一番なりたくない係)に なってしまった6年椿組大谷ゆりは、「係なんだから」と嫌々ながらも 共生型エイリアン「ボウグ」を頭に載せ、係の仲間と小学校に次々と現れる エイリアンをつかまえる日々を送っている・・・。 「エイリアン対策係」のメンバーは、お嬢様で、その経験値の豊かさからくる 即応性の高さを持つ「6年桃組 遠峰かすみ」と、物書きの母親の影響で 知識と冷静さ、大人っぽさを身につけている「6年藤組 川村くみ」 そして、いちばん普通の、どちらかというと幼い「6年椿組 大谷ゆり」。 ・・・勿論この「対策係」が単なる「掃除係」ではない事は明かで、 エイリアン対策担当の久川先生の言動を見ていると、彼等対策係の子供達を 段階的に強力なクリーチャーにぶつけて「訓練」を進めていることが解る。 彼等を「鍛えて」いるのは「ドリル族」と呼ばれる種族らしい。 第9小学校の校長自体がこのドリル族であることから、学校そのものが 彼等の「市場」?であるらしいことが解る。 まだ侵略の構図がハッキリしないんで何とも言えないんだけど、最終段階では 久川先生の様に、完全に同化する事になるのではないか? (或いは久川先生はハナっからの合成人間?) しかしこの3人のうち、既に遠峰かすみは別の種族のエイリアンと 共生関係に入ってしまったし、川村くみは一度食い殺されてから 再生(もう人間の身体ではない)されてるしで、現状全き「人間」は 大谷さんだけという有様。今までも最終目標に達した人間は居ない様で、 久川先生も辛いところだ。 ・・・で、そういう「骨格」と、この作品の魅力は別に有る。 えーと、つまりエイリアン対策係の彼女等の描写にこそ有るわけですよ。 どこがどう魅力的かというのも難しいんですが・・・例えば(一応)主人公の 大谷ゆりの、あの成長ぶりに胸打たれないではいられないのはワタシだけでは ないでしょう。子供故の茫洋とした現実認識(と不安)から、個人対個人の 人間関係としての「友達」の存在に気付く(「かすみ救出」あたり) までの成長過程がもう泣けて泣けて。「みんな友達だよ なかよくしようよ」 には実際泣いた泣いた。 或いは川村くみのあの目を見ただけでもう。あの心細さ一歩手前の キッとした眉。途轍もなく絶望的な状況でも正気を失わない「知識」属性の 不憫さよ。イヤだけどやらざるを得ない、という生き方でずっと生きてきた優等生。 自分の内臓が別の生き物に置き換えられても、発狂する事もなく 「おなかいたい」位の感想で済ましてしまう、感情を押さえつけた生き様は 何かしら自分と近いものを感じてしまったり。 (逆に言うと、その辺で遠峰さんはいまいち感情移入し難いんだけど) 我慢しきれずに泣いちゃう下り(同かすみ救出、のラスト)なんかはもー。 ・・・ああ、そうか、この作品の最大の魅力は「かわいそう」な事なのだ。 「ちょっとかわいそう」。この「ちょっと」の辺りがキツイんだけど。 内臓食べられたりとか。友達の人格が変わったりとか。 物語の全体構造が見えないまま、子供達がツライ境遇に追い込まれていく その不憫さ・・・ しかし考えてみればこのとんでもない状況を日常的な地平に置けてしまう (かわいそう、とか不憫だ、とかいう共感覚は、この異常な状況が「日常」 と地続きであるからこそ生まれる)この作者のセンスにはゾッとする。 命がけの仕事に対して「係だから」「仕方ない」という社会の押しつけ。 それに唯々として従わざるを得ない小学生。その強烈なまでの異常さを 違和感無く「仕方ない」レベルにまで持ってくる感性たるや。 またこの作品の特徴はその物語だけでは無く、「絵」「擬音」など漫画の構成 全てに独特の空気が有る。ストップモーションの様な白い戦闘シーン、 独特のコマタイミング、ペンのタッチを生かした睫毛、極端にゆがめられた瞳、 執拗なまでに丁寧に描かれた指の艶かしさ・・・全てに置いて印象深い。 ・・・何というか、得難い作品。SF属性の人は(まあ今更ですが)是非。 まだまだ秘密は多く、ラストには巨大なドンデンが待っている様な気がする @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/08/20)

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