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木尾士目


Shimoku Kio



げんしけん 二代目の伍(14) 
斑目に対するこの共感、この愛しさというものをどう表現したものか。

ここまで読んできた人たちなら「うんうん、わかるわかる」と
言ってもらえるだろうけど、メガネオタ男子に対して、いい年したおっさんが
「愛しい」とか気持ち悪いよな、客観的に見て。
でも、これはもう、愛しい以外の表現が出てこない。

これがあるいは友愛というものなのか。男泣きに泣く、ということなのか。
だとすると、自分は生まれて初めて「男泣き」を体験している。
斑目よ。お前はほんとにダメなやつだ。そして最高にいいやつだ。
その善良ダメさは神話時代なら星座になるレベル。

告白シーンは咲ちゃんの涙がすべてを洗い流してしまった感がある。
女の子ずりぃ。作者の画力、これまでの時間の積み上げの上での緊張感、
斑目の精一杯のねじくれた告白、咲ちゃんの涙。まるでその場に当事者として
居合わせたかの様に、緊張し、興奮し、涙して、深い息を吐く。
終わった。斑目は自分(の信じる行動様式)を最後まで貫いた。
咲ちゃんも正直だった。作者はここの流れに一切の無理を感じさせてない。

斑目の言動すべてに思い当たる節がある。ここはあえて「俺らしく」
「初心に返って」「思いっきりウザく」いこう、という判断をするくだりには
正直息をのんだ。この作者はここまで「僕ら」を観察してくれていたのか。
そう、そうだよ、いざというとき必ずこの露悪を選択してきてた。
そうすることで自分を保ってきた。そのことをこれまで面と向かっては
指摘されなかったけど、こういう風に(笹原妹にズバズバ指摘されるが如く)
切り出されると、図星の恥ずかしさよりも「あっ、この人自分のことを
見てくれている、わかってくれている!」というなんか泣ける様な気持ちに。
書いてて気持ち悪いな実際。

おそらくこの作者の(本来の)感性は笹原妹に近い。
集団構成を見たときに、サッと人間相関図が描けるタイプ。

読んでいて気になったのは結局のところその辺で、それまで斑目のやらかいところには
触れない、空気を読む仲間に囲まれていたのが、こうして笹原妹にいじられることで
いろいろと開放されていってる、それによって斑目は「卒業」してしまうのか、と
いうところ。お前たち笹原妹に頼りすぎだろ、と。人間関係にずかずか入り込んでって
ざくざく整理”したくなる”様な人物が登場してスッキリ、とか結局リア充に
解放されない限り何もできないのか俺たちは。できないんだろうな〜。

斑目以外にも見るところは多い(というかいちいちひっかかって語りたくなる
キャラが多い)んだけど、今回特に思ったのは大野さんのリアリティについて。

数年前年上の人たちと飲んでいた時に、げんしけん的サークル出身者が
「大野さんみたいな子、いたなー」と(割と苦々しく)言っていて、当時は
大野さんいい子じゃん、巨乳だし、とか思っていて、よくわからなかった。

今読むと「うわ、いるいる、いるわこのタイプ(げんなり)」と明確に
ある人物が見える。そしてその時なぜ苦々しく表現されたのかもわかる。
悪い人ではないんだけど、本人の意思(というか感性)が強すぎて周りが
振り回される感じの「女子」。その人を当てはめて読むと、最初からずっと
ブレてない。これはあれか、明確にモデルがいるのか、と、これは単に
ひたすら感心している。新世代の女子たちも、見る人が見れば「うわ、いるいる」
という感じなのかもしれない。笹原妹みたいなのも。この作者の「人を見る目」
の強烈さは、たぶん斑目以外にも注がれている。


斑目がすっきりした、というのはこの瞬間でのことであり、
人生はドアを開けた先でも続く。僕は斑目をまだまだ、これまで以上に
追いかけたい。
(20130626)

木尾士目「げんしけん 二代目の参(12)」/講談社/2012/06/22 斑目の現状に激しい既視感を(いつもの様に)重ねつつ、読み終わる。 でも、それから数日、自分の中にわだかまっているのは、 斑目ではなく矢島の「恋バナ」の下り。 異性に声かけられたことが数回ありました、おしまい、という様な。 まあ一見”かわいそうな非モテ青春”の類型としてオトしてる感じなんだけど、 それにしてはなんか、こう、ひっかかる。 その「ひっかかり」をきっかけに、自分の中の(例によって)見ない様に していたアレがむりむりむりむりと湧きだしてきて、ちょっとびっくりするほど 抑えられなくなってしまった。 あんな感じだったよ俺の”学園生活”は。 虚構がらみの記憶ではなく、リアルな空間での「自分」の記憶を 掘り返したときに出てくる、「青春」の思い出の驚くべき矮小さ。 忘れてるつもりだったけどなぁ。 矢島にはげんしけんの仲間が、或いは吉武がいる(少なくとも、今は)。 吉武が矢島を引っ張っているうちは、どんどん「良い方向」に転がるだろう。 そうあってほしい。マンガなんだから。 僕には吉武は居なかった。そもそもサークルに入ってさえ居なかった。 矢島の地味な高校生活の延長がそのまま10年間くらい続いた。 その事に気づいて以来この数日、その「なにも無かった」日々について、 ずーっと考えてる。延々と、考えてる。考えることを止められない。 日記に何も書くことが無い、誰も遊ぶ相手のいない「夏休み」みたいなものが、 ずっと続いてた。何かに抵抗していたわけでもなく、ただじりじりとした 苛立ちと不安をかかえたまま、何もしないで、膨大な月日を過ごした。 (そしてその「あの夏」には、めんまは登場しなかった。誰も。) あの日々は何だったのか。「何か」であり得たのか。 欠片でも意味が見出せないものか。 ゼロについて何をどう考えてもゼロな訳だし、過去に戻れるわけでもない。 大体もう結婚して子供も居て40歳に手が届こうというのに、いまさら 「なにも無かった青春」を供養しようという、それ自体全く無意味だ、と 脳の表面では分かっているんだ、けど。 ジャンクフードの食いすぎで自堕落に太りまくり、服装も髪の毛も気にせず、 ただ「自分はオタである」という一点にしがみついて他者を見下そうと試みて失敗し、 自分が寄って立つはずのマンガはド下手というか、そもそも一回もちゃんとマンガを 描いたことがない。 変にマジメ&常識人ぶってるけどその実キャパが無くハジけることができないだけで、 自由に日々を楽しむ連中が許せず、結果いつもムッとしてるような言動をしてしまう。 ああ…………矢島、お前はサークルに入って、吉武がいて、良かった、 ホントに良かったな。 斑目は斑目で、やっぱり気にはなる。 就職、転職、実家帰り、結婚が決まり、学生時代から住んでいた狭い部屋の、 透明衣装ケースに詰め込んだ(すでに一世代前の)膨大な同人誌を前に 「形見分け」をさてどうするか、悩んでる「俺たち」を、何度も見てきた。 それでも他の生き方ができるわけでもなく、やっぱり”この界隈”を薄く消費 しながら、漂っていくのか。11巻でのコミフェスを前に全然盛り上がらない 自分に愕然としてしまう感じとか、わかるぜ…… 斑目にとって(とりあえずの)ハッピーエンドは、咲ちゃんが白馬の王子様よろしく 駆け寄って抱き上げてくれること、ではなく「同じ目をした仲間」と居酒屋で 下らないヲタ談義を(こんなんばっか作っててこのメーカー大丈夫なのか、とか 無責任な感じで)ワイワイやれる、その「場」がまた現れる事なんだろうかなあ、 とぼんやり思う。 オッサンになって、ゲンジツに両手両足がっちり食いつかれてても、年に数回は 「地の言葉で」存分に語り合えれば、それはそれで「楽しくやってる」と言える。 そうやってタコツボの中で死ぬまで楽しく、という「解決法」を見いだした連中は 実在する。そして、斑目は「それ」ができるタイプだと思う。 それでいいんだ、生きて行くんだ、と腹をくくれれば、ああ、人生 楽なんだろうけどなぁ…… とりとめもないままに。 (JUL.13.2012)
木尾士目「げんしけん10」/講談社/2011/5/23 カバー外した時の「開けないでヨ」の自然さ (ああそうね、そうだよね)に、この漫画の持つリアル 「オタ」理解/描写の精度・及び中道っぽさを感じさせてくれる。 なんつーかね。 斑目のブチ抜きハジ線からの 「何のことだかわかりまセンなぁー!!!!」 にときめかない奴ぁ居ないよ。 いろんな感情が炸裂して、もう涙出るわ。 これがつまり「不憫萌え」というやつなのか!! あの、いろいろこじらせた結果「もう色々いいや、俺はオタクなんだから」 と心の平穏を掴んでしまった青年の、弱点丸見えの脆さがもうなんかね。 オタク趣味に全霊を注いで輝いていた(かに見えた)斑目が、 いや、「俺たち」が、社会人となり、その有り余る青春リソースを 「仕事」に食い尽くされ、家にかえって眠るまでのわずかな時間を 缶ビールと現在進行中のオタク的事象の「キャッチアップ」 に費やすだけで精一杯、となっていく。p27の「…だっけ?」とかな。 世の流行の上澄みをすくう方法は知ってるから、要所要所は掴んでるけど もう「そこ」にずっぽりハマってる訳じゃない……感じ。 自分を鎧っていたオタク文化はすでに浸透と拡散により、ありふれた ものとなっていて、アイデンティティの構築の軸にはなりそうもない。 俺って何なんだ?何のために生きてる? でもなー、斑目よ。お前いい顔だぜ。いい顔になってるぜ。 1巻の頃の全身全霊でオタ(作品も、それを取り巻く人々の動きも)を 楽しんでいた頃の顔も良かったが、今の顔もいい。 恐ろしいことに人生はまだまだ続く。 アニメの新作はどんどん現れては消えていく。 今や13話に満たないアニメのオンパレードだ。 過去に見たアニメが記憶に澱の様にたまっていき、 何を見ても「ああ、これと同じ話を前にも見た……けど あれは何てアニメだったっけ?」みたいなこと「しか」 感じられなくなる。 斑目、お前なら、どう生きる? @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (2011/07/07)
「げんしけん」9巻読了。正直斑目をどうにかするのか、どうにかなるのか、と そればかりが気になって、でも、ああ、そうだよな、俺だってそうだよ。そう だった、ではなく、今もよ。「一般人」の「女子」との距離の取り方が読めなくて、 発言しては「うわ俺何いってんだ」とかなって後ろ向きになる。第53話「告白」の 下りなんかはもう胸が痛くてたまらんかった。でもあの辺はまだかわいいでしょ。 巻末の「実は○○」発言のリアルな、生々しい、強烈な痛さ。死ねる。しかし32歳に なって、結婚もして、それでも自分はあの斑目の発言の痛々しさに強烈にシンクロ する。お前は!お前は!!ピュアすぎる!しかし正直、もう少し「大きい」 「重たい」話に展開していくのかと思ってたんだけど、ディープなオタク観察 マンガにもならず、また誰の視点にも深入りせず、結果としてただ 「チャラい大学生生活」のサンプルみたいな感じになってしまった感があるのは、 個人的には、残念。いやまあ元々それが作者のカラーだとしても。 (20061227)
「げんしけん6」読了。大野さんはその胸腹の段差造形で5割は得をしていると 思う(p165のビール飲みシーンなど)。そしてオギーは正直どうなんか。うーん。 イマイチ……結局斑目に萌え萌えするばかり。こいつの思考パターンの愛しさは なんなんだろう。あと笹やん兄妹の会話の超リアルさにゾクリと来る。特に P122あたり。つい最近同じ様なことやっちゃってな……言われたわ、これ、全く 同じこと。離れて生活してる妹に対して、昔の(当然の様に偉そうな)態度を 取ってしまい、当然の結果として傷つけてしまう。そしてそこから立ち直る妹を 呆然と見てしまう兄の立ち位置。おまけに拙者妹二人いるからさ……やったわ、 やった、なーつかしいダスなー。いや、ホント難しいんぜ。 卒業式でオタ話にホッとした感じで食いつく連中の空気のもっていきかたに もうなんつーかたまらずじーんと来てしまう。上手いよなーホント。あと 斑目はこれからが勝負なので(ホントにな)頑張って欲しい。お前なら (俺とちがって)うまくやれるさ!(明後日の方向を見つつ) 「同人誌」の方は正直志村貴子のだけでお釣りが来る。でもなにげに 同人ラックに放り込んでしまい速攻発掘不可能に。再現性高杉。ヒラコーが 原口の心配してるのがスゴイ泣ける。そんな夜。 (20050629)
げんしけん4巻読む。雑誌で読んでおいてホントに良かった。立て続けに読んだら 死ぬ。今はもう落ち着いて読めるよ。ああ斑目の愛らしさ。引き出しの中に咲ちゃんの 写真、の下り、好きだなあ。或いはあの笹原を見るときの表情とか、萌えずにいられよう ものか。しおりは当然斑目に。奴の「世間と俺」の線引きの感覚が、もうホントになん つーか琴線をくすぐるよ。「俺はいいの、俺は○○だから」あの引き具合。恋話途中で 席を外し、ぼんやり外を見つめる斑目。あああ。ああああ。あと咲ちゃんは普通に 良い子なので困った。ああ困った困った。何故困る。p146の斑目のハジ線……あああ。 (20040630)
木尾士目「げんしけん 1」/講談社/2002/12/20 友人に薦められて買ってみた。で、読んで、泣いた。本気で泣いた。 いや、もう、初読の時は言葉も出なくてね。 何回か読み返して、今漸く平静な気持ちで読めるけど、最初はホント、滅ッ茶苦茶 辛かった。何でここまで直球で入ってくるのか、そりゃそうだ、この風景を、この 会話を、この空気を、この緊張感を、この劣等感を、この夜を、朝を、そしてこの 「臭い」を、僕は全部、嫌と云うほど知っている。が故に、再現性が高すぎるのだ。 そして、自分が過ごしてきた(あるいは過ごし得なかった)日常を、こうやって、 切り出して、見せつけられて、何も言えず。自分が失って、もう二度と取り戻せない 日々を見せつけられて、自分でも笑えるほど動揺してしまった。いや、今も、正面 切ってこの漫画を捉えようとすると、狼狽えてしまって、どうしようもない。 こういう時代を、俺たちは生きた!(柳沢慎吾) よく云われてるみたいだけど、つまりは大学生版究極超人あ〜る、というかさ。 或いはオタ度数の高い「マサルさん」。なんとなくマサルな気がする。 「如何にしてヌルい日々を生きるか」のサンプルっつーか…… 1巻を読む限りは「オタクはじめて物語」という感じ。抑圧してきた「オタ三昧」 への欲求を、大学入学を機に「開放」せんとする若者が、先輩オタクの洗礼を受けて 一人前になっていく様、が実に巧く(鋭く)描かれている。薦めてくれた人は 「ホントにこんな感じなの?」と聞いてたけど、ホントにこんな感じ。もう、その まんま。先輩達から「作法」を学び、自分を「開放」していく過程が一々しっかり 描かれていて、涙無くしては読めない。あーそーそー、「そう」なんだよー、誰しも 最初は興味無いフリしたりして、でも先輩方の「資産」には興味津々でさ。少しずつ 図々しくなってってさ……いや、ある一時期、間違いなく僕は笹原だった。 と、まあ、コミケ描写も含めその辺はこの漫画の「ツカミ」なんじゃないかと 今は思ってるけど、いやもう、初読時はそれどころじゃなかったね。掴まれまくり。 頭掴まれてぶん回されてる感じ。もう忘れていた感覚がドッカンドッカン蘇ってきて 大変だったよもう。目押しが大中小全部極まってK.O.みたいな。 自分の存在証明というか、生きていた証というか。そう、あの膨大な「夜」、 NEOGEOのコントローラの前で繰り広げられた人間関係は、確かに存在した。ツレの 家に遊びに行く前には、まずコンビニで人数分の弁当とコーラを買ったものだ。 上がり込んで、既にゴロゴロしているヤツラの間に座る場所を探しつつ、「この 漫画読ませて貰っていい?」とかいいながら、自分の番(対戦の)が回ってくる のを待ったり、データをやりとりしたり、そんなことを繰り返していた日々が、 僕の上にも確かに有った。まだPCのOSはWindows95には移行していなかったし、 インターネットも2chも無かったけど、90年代半ばの一時期、僕は確かにこういう 日々を生きていた。 「夜」とはセットじゃなかったけど、始めて同人ショップへ入ったときの興奮とか、 始めてコミケに行った時の感触も見事に「再現」されていて、自分の「初体験」の 気分をありありと思い出せて切なくなってしまう。ぐわー切ねーって別に切ながる ことでもないか。でも、こういうドキドキ感というか、新鮮さというか……あー! 今の俺にはこの新鮮さが欠けている……ッ(どうでもいい) つまり、ある種の人々にとっては「あーあるある!」「いるいる!」みたいな事例の カタマリなのよ。改めて切り出されて気付く「栄光の日々」。いやー、原口さん みたいな人、どこにもイルヨネ。思い出した……いや……最近は気にならなくなって きたけど。だってホントにどこにでも居るもんね。ただ斑目みたいなヤツってのは、 僕の周りには居なかった気がするなー(コーサカも)。居たら楽しかったろうが。 ……まあ部屋が同人誌&オタグッズ&オタ野郎で一杯の部屋に彼女連れ込んでた奴も 居たけどさ。そして笹原みたいに気が回らない僕たちは気まずい気分のまま朝まで。 あああー。 しかしマジで斑目ラブだ。実際ソラで斑目の顔が描ける位には惚れている。 あの表情!あの仕草!あの手つき!あのうなじ!あの歪み具合!あの語り口がもう たまらなくツボ。男が男に惚れるって奴か!(違う)でもホントかわいくてなー。 p91で斑目が「くじアン」読み終わった後に感想を語り出す下りは、もう涙が出そう にイイ。何の前フリもなく「今週の『くじアン』面白かった会議」とか切り出して、 一応ツッコミをうけておいてから本題になだれ込んでいく感じとか、もう。 つーか、あー、なんかさ、こいつらの顔みてたら、解るのよ。お前らいま、ホントに 幸せだろ、と。何の迷いも躊躇いもなく、幸せだと言えるだろう、と。受験の抑圧 から開放され、就職までの数年間を、ただもう「オタ」に費やす事を決意した連中の、 あの表情。このままいったら駄目になる、駄目になるけど、でもどうせ駄目になる なら、とことんまでつき合ってみよう、自分がどこまで行けるか試してみよう、 みたいな「自覚」がどこかにある。向上心、と言えなくも無いが、それは駄目人間 へのステージを駆け上がっているに過ぎない。自虐的というか…… なんか、たまんねー。あー。言っても為ん無い事だけど、あの頃に戻りたい…… いや、でも、今またあの頃みたいな「夜」を過ごす「権利」が自分に与えられたと しても、もう駄目だろうな。sourgrapesじゃなくて、やっぱ初めて「それ」をやる 時の興奮とか感動とか、そういうのが「げんしけん」には詰まってるんよ。 「濃い先輩」に連れられて、初めて”彼等の夜”につき合った時に感じた、云い様の ない「ああ!こいつら濃い!俺にはまだまだ覚悟が足りない!」という泣き笑いの 感覚。いやー、そうだよ、「俺に足りないのは覚悟だ」って思ったよあの時は。 でも、僕はもう、一度「それ」をやってしまったからさ。 でも、ちょっと安心もしたのだ。あの、終わり無き夜の日々、コンビニ経由で ツレの部屋行ってオタク談義しながら朝まで格ゲー、という「作法」が、ちゃんと 「継承」され、今夜も何処かの屋根の下で展開されているのだ、と云うことに。 いや、ホントにそうなのかどうかは解らないけど、でもそう信じさせるだけの 「空気」がこの漫画にはちゃんと描かれていて、そう、だからこの木尾士目という 漫画家の巧さに注目すべきなんだけど、ちょっと今そういう引いた視点でこの漫画を 語れません。ヴァー。いやー、でもホント、「動物化」前後のオタク風俗をここまで 的確に(虚構的に誇張はあるにせよ)「内側」から観察記録した漫画は無いんじゃ ないか。特に「作法」の面では(コミケは並ぶものだ、徹夜は駄目、臭い、ツレの 家に行く前にはコンビニ弁当、女の子からの電話が有ったときは黙って帰る等の 豊かなディティール)、これから「彼等」の後に続く者達にとっての教科書とも なりうるのではないか。 昔、ガイナックスが作った「おたくのビデオ」って作品があって、80年代おたくの 回顧アニメ(+α)なんだけど、やっぱ今の裾野が広がりきったヌルイおたく文化 とは違って、かなり熱気というか、武闘派の内容だった。自分達が見出した、まだ 名もない「価値観」に名前と姿を与え、社会の抑圧と戦い、知識を競い、蘊蓄を ぶつけ合って、自らが愛した「文化」を世間に認めさせようと闘った(らしい)。 だが今は違う。 今や「オタク」と呼ばれる連中は、もっと欲望(萌えの消費、或いはリビドー)に 忠実であり、もっと熱量は少なく、もっと本能的に生きている。それが良いか 悪いかは別として、その「現在」を切り取ったのがこの漫画だと言える。「その中」 で一時期を過ごした者として、この漫画に大きな嘘はない、と断言する。これが、 「戦後」育ちのオタクの姿だ。 「でも知ってるか?  ガンダムって俺達の生まれる前なんだぜ」 いや、僕は戦前生まれですけどね @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (03/02/01)
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