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本棚・筒井康隆



筒井康隆「にぎやかな未来」/角川書店/1972/06/30

短編集。収録作は以下の通り。

超能力
帰郷
星は生きている
怪物たちの夜
逃げろ
事業
悪魔の契約
わかれ
最終兵器の漂流
腸はどこへいった
亭主調理法
我輩の執念
幸福ですか?
人形のいる街
007入社す
踊る星
地下鉄の笑い
ながい話
スペードの女王
欲望
パチンコ必勝原理
マリコちゃん
ユリコちゃん
サチコちゃん
ユミコちゃん
きつね
たぬき
コドモのカミサマ
ウイスキーの神様
神様と仏さま
池猫
飛び猫
お助け
疑似人間
ベルト・ウェーの女
火星にきた男
差別
到着
遊民の街
無人警察
にぎやかな未来


夏になると「池猫」が読みたくなるのだった。
いつもは「池猫」だけを読み返して終わるのだけど、何となく通して読んだので
メモ程度に感想を。



「 世のなかがこんなに文明化してくると、人間のすることが何もなくなって
 しまう。ぜんぶ機械がやってくれるのだ。
  公害のでかい家に住みたいとか、あちこち旅行をしてまわりたいとか有名
 になりたいとか、そんな欲望さえなければ働かなくてもいいのだ。金がなく
 ても人なみの生活ができる。」(「にぎやかな未来」冒頭)

こんな書き出しで物語が始まる様な短編集。


筒井康隆の短編の中でも初期のものだろう。全体にやわらかい語り口で、正直
他愛のない作品も多い。毒はあっても狂気は薄い。全体の熱量は低い。
だが、忘れられない短編が幾つも入っている。

「池猫」もそうだが、「到着」などは、何度読み返しても、初めて読んだときの
腰が抜ける様な衝撃が蘇ってくる。いや、笑わないで欲しい、本当にショック
だったのだ。これだけの話が。

高校生になったばかりで、毎日形のない不安と戦いながら、必死で逃げ場を
探していた頃。まだ”SF”と出会う前夜、星新一を読み終え、恐る恐る
手を出した筒井の、その衝撃。

今回読んでいて「おお」と思ったのは「亭主調理法」で、この作品だけは他と
違ってその後の筒井らしさが見事に出ていて笑う。もう時効だと思うので
ネタを割ってしまうと、ドメスティックバイオレンスに耐えかねた妻が亭主を
刺し殺し、出刃包丁で解体していく描写が、途中から編集側のミスで
「豚肉の洋風うま煮の作りかた」になっていく、という。
それだけのオチなんだけど、この辺が筒井だなー、と。この手の笑いはその後
ごまんと作られた筈で、今でもコサキンとか聞いてるとそんな投稿ばっかりだ。
そう言うのに嫌と言うほど慣れ親しんでいても、この作品の持つ妙な鮮やかさは
消えない。その辺が不思議。

「お助け」も久々に読んで、あー、これは、と思った。初期の岬兄悟っぽい(逆か)
精神的に「クる」作品。徹底した救いの無さ。この突き放しっぷり。ここまでの
作品はそうは無い。

「無人警察」は教科書に載ろうという作品だった訳だが、正直どうなんだ、という
感じはする。ラストの、不気味と言うよりは「嫌な」感じは筒井らしいけど、
ショートショートとしての鮮やかさには欠けるだろう。もっとどぎつくてもっと
反社会的でもっと狂気に満ちていてもっと鮮やかに読者を裏切る作品はまだまだ
ある。敢えてこんな作品を選ぶ事はなかったのだ。そうだ教科書には「裏小倉」と
「乗り越し駅の刑罰」を。「問題外科」もいいなあ。真面目な話、「関節話法」
とかどうか。単純に出来の良い作品だとおもう。笑えるし。「鍵」とかも良いぞ、
星新一のと並べて入れたらどうだ。ってまたそういう話を始めると止まらない。



・・・然し矢張りこの単行本で最も忘れ難いのは「池猫」だ。

何故この作品がこうも忘れがたいのかは正直よく分からない。
「池猫」という物語の筋だけ見ると、何だこりゃ、ギャグか?という感じなん
だけど、作品に流れる空気は「恐怖」そのもの。

ラストの恐ろしさ、見てはならないものを見てしまった!という恐怖は、ちょっと
説明しがたい。実際何がどう恐いのか分からないけど恐いのだ。恐ろしいのだ。

毎年、夏になるとこの作品を思い出すのだった。今年も。

@@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
(01/07/24)

筒井康隆「朝のガスパール」/新潮社/1995/08/01(1992/08) 平成3年10月8日から4年4月6日まで、朝日新聞朝刊に連載された新聞小説。 朝刊連載という舞台を利用し、読者参加型(或いは巻き込み型)小説として 読者の投書、及びASAHIネット(昔有った「パソコン通信」というもの)の 掲示板での書き込みを、その都度「小説の作者」であるキャラクター(これも 虚構内存在)が小説内容に反映し、それによって虚構から現実世界への浸食を 行ったメタ小説である。 ・・・という体をとった小説。勿論実際には朝日新聞には小説は連載されて 居なかったし、また読者の投書などあり得ない。全ては作者の筆先から生み 出された虚構だ。読者はその「朝刊小説だった」という事を信じることで、既に 虚構内存在としての「連載が終わった後に出た単行本の、さらに文庫落ちした やつを読んでいる読者」となってこの虚構に染みこんでいる。 とか仮に僕がここで書いたとして、今はまだ当時の記憶が鮮明だから否定も されようけど、時代が進むと「へーそれも虚構なのか、じゃあこの文庫巻末に ついてる電脳筒井線関連の解説もひっくるめて全虚構なのか、あっ、じゃあこの 奥付も虚構」とかそのへんまで行って初めて意味の有る小説。 連載自体が祝祭の様なものであって(祭りが終わった後も再読されるのを或る 程度予測して組み上げられた作品ではあれ)、矢張り読んでいて祭りの後の 侘びしさというか、寒くもなく暑くもなくいわば虚無いというか、20世紀も遠く なりましたねというか、そういう空気が感じられた。黴くさい、のだ。時代性を 取り込んで仕舞ったが故に黴びてしまった、そんな気がする。時間がたてばその 「黴臭さ」も「風味」に変わるだろうか? 等と斯うして「印象」でもって作品の「感想」をだらだらと述べる僕の様な馬鹿 の存在さえも既に作品には折り込み済みなのだ。とはいえ。うーん。いや、面白 かったのヨ。まだこの頃は筒井(呼び捨ては基本だ)特有の節回しが有って。最近 じゃすっかりねえ・・・とかそういう「感想」さえも作中で言及されている 以上は作品の内部に取り込まれてしまう構造であり、更に後の時代にこの作品が 語られる可能性も言及されているから、今後この作品について語られる言葉は 全て作品の一部に吸収されてしまうのだ。というか、作品に飲み込まれてみないと 本当にこの作品を「読んだ」事にはならないし。メタ構造から「本文」だけを 抜き出す、と云う事が不可能な形態である以上、「日本語小説」が存在し続ける 限りこの仕掛けは作動し続けるという。 そういった「小説の構造」そのものを楽しめばイイんだと思う。読んでみ、と。 (・・あー、それ以上言うとこっちの底が割れるので・・・) @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (01/06/05)
筒井康隆「宇宙衛生博覧會」/新潮文庫/1982/08/25              /新潮社/1979 「蟹甲癬」「こぶ天才」「急流」「顔面崩壊」「問題外科」「関節話法」 「最悪の接触」「ポルノ惑星のサルモネラ人間」を収録。 最近またツツイの再読をやっている。 星作品なんかと違って内容を忘れるのに2年くらいかかるので、2〜3年周期。 この文庫も久々に読んだんだけど、いやもう実に面白い。爆笑しながら読む。 声を出して笑いながら読める小説がこの世に存在してた事さえ忘れかけていた。 特にこの単行本は個人的には「急流」「関節話法」が入っている点で 今でも個人ランキングではかなり上位に入るものだ。 強烈なネタをリアリティ溢れる語り口で描く「急流」は、実際今読んでも (オチが解っていながら)最高に面白い。これなんかはもう落語の域か。 とにかくそのあまりの「出来の良さ」にはため息が出る。 時代を超えてもその鮮やかさは全く衰える気配を見せない・・・ (反対に、「顔面崩壊」なんかは、もう全然痛くも痒くもない。 以前は痛くて痒くて仕方がなかったものだが・・・慣れとはこういうことか) ・・・あ、まさかこの単行本を読んだことがない、なんて人が居るとは 思わないから、自分の記憶メモ程度に・・・と思ったけど メモなんかするとまた忘れるのに時間がかかるからやめとこう。 読んでない人は問答無用で本屋に行って新潮文庫の筒井康隆の棚を 全部さらってくること。 あ、でも思いつきだけ。 「関節話法」の可笑しさの中で、文脈に関係なく「こんにちは。」とかが 挿入される辺り、非常にながいけんライク。ながいけんの言語感覚は このころの筒井に似て無くもないのかも・・・・ で、何でそんなことこんなトコに書いてるかというと、内容整理のついででした。 たまにはね。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/07/26)
筒井康隆「文学部唯野教授」/岩波書店/1990/1/26 正直「読んだだけ」で有ることを告白する。 何せ講演テープ「誰にも解るハイデガー」を聴いて「解らなかった」男だ。 この本でも唯野教授の講義自体は分かりやすかったものの、だが解ったのは その場(読書中)だけで、完全に会得できたわけではない。「教養」にならない・・ 読んだ端から忘れていくからな・・「心理は知識の向こう側にある」らしいけど。 どっちにしろ矢張り最後は自分で原典に当たらざるを得ないか。 文学系に席を置いた人間ではあったが、「文学とは何か」に至る以前の段階で 終わってしまったというナマクラであれば興味はあれ、読んだのは大学も 卒業しようと言う4回生の12月頃だったと記憶する。 それから今まで感想用棚に放り込んだまま、たまに腕組みをして 「書くべきか、書かざるべきか、やめとくか・・」とかやってたんですが いい加減棚が狭くなったんで仕方なく。 その「文学とは」以外の、つまり「大学」という空間のカリカチュア(本当は カリカチュアどころかもっとアレなのは地方国立大学でも同じ事。 文学系は特にだ。)は如何にも筒井らしい勢いのある展開だったが、如何せん 主人公の唯野教授が大学人という事で、行動原理がかなりいつもの「俺」とは違う。 その違い方が妙にリアルで気分が悪くなった記憶がある。知っている教授達の空気に 酷似していたのだ。それがなんか恐くて・・・ 大学の内部事情暴露本、として読むことも可能。かなり「近い」感じはします。 鶴見氏なども「リアル過ぎる・・・」と語って居られて。 それでも読み始めた時は唯野教授の講義内容に興味があったてのがメインで、 なのに読んでみると今一つ「理解する快感」が薄かった。 単に理解できていなかったのかも知れないが、兎に角「読み」と言う行為への 新たな視点からの「センスオブワンダー」を期待するなら田中実 (小説の力、とか)でも読む方が今の私には相応しいと感じた。 この(田中の)読み方が今の「ブンガク」を変えつつある様な気がする。 唯野教授の最後の講義でも「現代的な小説を読むには、早読みしない、 ゆっくり食べる、はしょらない、丹念に摘みとる、これが大切です」(p297)と 言っているし。読み手の為の作品、は読み手の数だけ無限に存在しうる・・・・ そういった「読みのアナーキー」と対抗せざるを得ない現在、虚構のための論理が 開発されねばならぬ・・・わかんない話になってしまいましたスイマセン。 一時期時代を席巻していた唯野教授も最近はそうでもないのか影が薄い。 筒井作品が大うけしたのはもう昔の話、なのか。 「過去の栄光」から作者も読者も抜け出しつつあるが、しかし、その中で 生まれた作品は、まだ一つとして僕の心に染み込まないのであった。 どうにも頭ヨーグルト @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
筒井康隆「文学部唯野教授のサブ・テキスト」/文春文庫/1993/7/10(初/1990/7) タイトル通り、岩波「文学部唯野教授」のサブテキストである。 対談、インタヴュー等が主(巻末の「解説にかえて−『文学部唯野教授』の特別講義」 は読ませる。オモシロイ。)だが、目玉は ポスト構造主義による「一杯のかけそば」分析 であろうか。でも素読ではその「笑い(危機感を含んだ)」が出て来にくい、 てのが実感。あの頃に比べて時間も経っているしな・・・ 確かにコドモゴコロにあの「一杯のかけそば」ちゅう話はあんまり駄作で こんなのを学校の先生がコピーして配ったりしてるのが妙に思えたものでしたが。 斯う言うのを有り難がって笑おうと努力するのもアレですが 読めば成る程とは思う。思うがかなり「解る人にしか解らない」というか・・・ 正直「〜?」という・・・ どうも要領を得られない。 読者としてのレベルが・・・ やっぱ勢い馬鹿SF〜とか「虚構」のツツイまでしか理解できない私。 ・・・ツツイをやたら有り難がる傾向がある、と言うのもまた事実で 昔のSF者はこー・・・駄目だなあ・・・いろいろと・・・ ううむ・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
筒井康隆「夜のコント・冬のコント」/新潮社/1994/11/1(初/1990/4) 筒井氏が断筆中に未読のものを読んでやる、などと言ってましたが、 結局「朝ガス」すら読めぬまま、先日ついに筒井氏は執筆を 再開されてしまいました。ファンとしては喜ぶべきですが・・・。 さて、この文庫もその未読だったもの。 短編集であり、内容は割とバラエティに富んでいます。 どれを読んでもツツイ風味で読ませる・・・読ませるんですが、 「風味」がどれも(かつてのそれに比べて)弱すぎる気がします。 発表の媒体が文芸誌だから?いやそれなら今までも・・・ ・・最近久々に「バブリング」を読んだら 裏小倉とかもう息も絶え絶えの大爆笑になってしまって、 やっぱ「昔の」ツツイは凄い!!と再認識した後だったもので その面白さというか息も絶え絶えさが出ていない、様な気がするんです。 それでも勿論オモシロイのは面白い。 「傾いた世界」なんかは如何にも「筒井らしい」といえます。 女性を醜く描くノリは昔のそれでしょう。でもこのラストも妙に静かで・・・ 昔のスラプスティック的しっちゃかめっちゃかで 収集が着かなくなってフェードアウト、とかそういうパターンが好きなんです実は。 その意味では「最後の喫煙者」のラストはソレに近いです、が、 この作品はこの作品で中盤の盛り上がりを欠く・・・ 何か過剰な期待をしてますか?>俺。 「都市盗掘団」なんかはその静かな世界から椎名誠作品だと言っても通用する。 椎名誠っぽい、というとまた問題があるんでしょうが、こう・・・なんか 違うんですよね・・・確かに幻想系も傑作は多いんですが・・・ オチに至る作りが違うというか・・・ 結局一番「らしい」と思ったのは「火星探検」。 人間の心理ほど「あてにならない」ものは無い、と言う・・・ これは筒井にしか描けない唯一無二の作品。 「池猫」や「乗越駅」的傑作といえます。 救いの無さも含めて非常に「良くできた」作品。 他人に真似の出来る物ではないでしょう。 ちなみに「「聖ジェームス病院」を歌う猫」は受験生必読! ていうかこの雰囲気は・・・これは「図書室のドラゴン」・・・ しかしこの作品もオチが渋過ぎる・・・ でも、面白かったんですよ。どうも過剰な期待が・・・ ていうか単に好き嫌いの問題ですな。当然読んで損無しではあります。 まだ未読処理中の @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (1997/03/20)
筒井康隆「最後の伝令」新潮社/1993 やっと通して読んだ。 なんかTVで筒井が「書くべきか書かざるべきか・・やめとくか・・」なんて 言ってるので、なんか妙に期待してる私です。 実は中身はたまたまだけど当時の雑誌で殆ど読んでいたのであった。 ちょうど筒井にモロハマリしてた時期だったものな・・90〜92年。 この短編集が出たとき、僕らは筒井が死んでしまうんじゃないかと 本気で心配したものだったが、何のことはないこうしてみると スランプだったのな。 それ故か正直ちょっとね・・という。 久々に通して読んだことなるが、とにかく不味い。 ただ一作、「瀕死の舞台」が強烈であった。すさまじい。これを新潮で読んで 僕は慄然としたのだった。 それでなくてもこの本には「死」をテーマにした作品が何作も入っていると言うのに、 これは正にそれそのもの。ううむ・・・ 気に入りは「近づいてくる時計」で、この本には多く見られる筒井にしては珍しい 私小説風の作品ではあるが、「禽獣」などに比べればSF的であり、いやこの 作品集の中ではもっともSF臭がする物といって良いだろう。 だから好き、とは短絡だとも思うが、ホラ俺SF者だしぃ(あ・目つきが・・)。 分からないのは「ムロジェクに感謝」ムロジェク、とは? だれか教えて・・・ まー筒井もTVやラジオでいろいろやってネタも溜まっただろう・・・ 是非とも復活してまたがしがし長編を上げて貰いたいものである。 作中に出てきた「大槻ケンジ」は「ケンヂ」の誤り? @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
筒井康隆「残像に口紅を」中央公論社/1989 世界から言葉か消えていく。 どんどん欠けていく「音」。 それでも物語はある程度まで、微妙な喪失感を感じさせながらも 自然に続いていくのだ。後半はもう読んでいる方も胃が痛くなってくる。 筒井が胃に穴を開けたというのもうなづけるというものだ。 計算の行き届いた(そして一見それを感じさせない)展開が素晴らしい。 「超虚構」なんて言葉づけはしたくないが、その解説付きでの導入が凄い。 喪失感と、それによるもの寂しい哀しさ。あー・・・ この作品から感じさせられ考えたことを明確に文章にしようとすると 稚拙な言葉が何メガにもなる事になるから以下個人的思い出話。 今から数年前、高校生の頃だけど、真性ツツイストのAK松氏が この本のことを興奮した口調で語っていたのを思い出します。 あの時「貸そーか?」という申し出を断ったのは、丁度氏の影響で 僕も筒井を揃え出していて、借りて読むと買う気が失せると思ったのだ。 直ぐ自分も買って読む積りであった・・・それからもう5年・・・ すっかり活字野郎からは遠くなってしまったワタシですが(何て事!) どうにか読み終わりました。 あの時の彼の興奮がなんだったのか、解った様な気がします。 当時まだ筒井を読み出したばかりだったワタシは、彼の語る内容に、 実験的な臭いしか感じなかったものですが、あれから筒井も50冊は読んだ。 あの「虚構船団」だって読んだよ。 その上で、久々(一年ぶり位?)に読んだ筒井作品はあまりにも強烈で 暫く脳の仕組みが変になってしまった・・・ こうしてタイプしている文章に、無意識に音の欠けの有無が無いか観てしまう・・ こうして脳を直接打撃されるような作品というのは久方ぶりで、何というか、 境界線が簡単に乗り越えられてしまう・・ かつて僕が神林長平に狂ったあの頃の様。 所で神林の新作ってどういうタイトルなんスか? 全然情報無し・・・SFMだったか「本の雑誌」だったかで「あれはすごい」とか ・・・今月のSFMに紹介載るらしいけど・・・ 所でタイトルの「残像に口紅を」の意味は? 素晴らしいタイトルだとは思うし、事実内容と見事にマッチしているとは思うが・・ 何故このタイトルになったのか・・・ また表紙画は何らかの意味を持つのかしら? 謎は深い。 僕をツツイへの道へ引き込んでくれたAK松氏には大感謝。 もともとこの人にはいくら感謝しても足りないんだけどさ。 本当にことの人と出会わなければ僕はどーなってたことか・・・ あんなに強烈な「個人」は未だかつて観たことは無いわ。 というところで、おしまい。 こんな凄い作品読んでもこんな言葉しか出てこないってのがどーにもねぇ。 情けない。 やっぱりインプット増やさないとなー・・時間が欲しい・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
筒井康隆「旅のラゴス」徳間文庫/1986/1989 朝JRに乗って読み始めて そのまま 完全に没入してしまう・・ そのまま読み切ったす。 あ゛あ゛ぁーー ええ本読んだ。 そんな感じ。 主人公ラゴスは南へ旅をする。その目的とは。 そのへんからして面白いので これから読む人の為にネタばらしは止めます。 それに巻末の鏡明氏の解説が見事でもある事だし。 筒井の長編を読むのは 考えれば「虚航船団」以来でしたが・・ この作者の性質というのはどちらかというと 既成の物語観をパロディにしたり いちびった物のとらえ方をした作品が多いのに この作品は「物語」をきちんと語っていて・・ そういう意味では僕は この作品で初めて 筒井の語る「物語」を読んだと言えるのでは。 とにかくおすすめ。 大当たり。 あー。 いいっすよ。本当に。 時間とお急ぎでない方は是非。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
筒井康隆の「パプリカ」をいまさっき読了したところだ。 圧巻。これは凄い。 メタフィクションとパラレルワールドの交錯する作品世界。 夢空間が現実を侵食している感覚がたまらなくいい。 分裂症の心的風景の描写も(やや安易とも思うが)素晴らしい。 例えば日本人形の行列というのは現実に想像してみると これはもう発狂しそうになる程怖い。 乾の意識下の怨念がDCミニを通してつぎつぎと妖怪変化を現出させていく場面。 圧倒的迫力である。 何よりキャラクターが魅力的であり(知的な美女、天才的な元ヲタク等) 主人公パプリカこと千葉敦子の美しさが(エロチックとはちがう・・) 少なくとも男性読者にはページをめくる手を休ませない。七瀬みたいだな。 正直PT機器の解説は全く理解の外だが、SFよえすえふ。 とか逃げたり。解る人には解るのかしらん。 これは中条氏の指摘されたようにどうも「朝ガス」の前編 あるいはウロボロス的関係を結ぶ作品であるらしい・・・ とはいっても「朝ガス」読んでないんだよオイラ。うううう。 久々にいきつく暇もなく一気に読めたSF。おすすめです。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
筒井康隆「薬菜飯店」新潮文庫360円/1988/1992 まだ読んでなかったんです。実は。 友人のツツイストが高校時代に「これはすごいねんぞ」とよく言ってました。 その時買ったは買った後、積ん読くしてて幾星霜。 こんなん多いわ。積ん読くしてある日突然読みたくなる・・・ さて。 表題作の「薬菜飯店」はジョジョのトニオ・トラサルディのモトネタですね。 しかしその薬菜料理のうまそうな事。僕の不健康な体にはこれが必要だ・・ 「法子と雲海」 教養を試される作品かも。説話的世界を持って「夢」を語る。 結局パプリカにつながる夢ものの筋か。 「イチゴの日」 これは面白い。似た筋を大槻ケンヂが後に「のの子の復習ジグシグ」で描いているが こっちの方はまだおとなしいか。 これに出てくる悪魔の描写もなんか「パプリカ」臭いぞ・・ 「秒読み」 まるで60年代後半のアメリカSFみたい。 言って良ければまるでブラッドヘリの様な雰囲気。 これは気に入り。 「ヨッパ谷への降下」 系統としては「エロチック街道」系の幻想的な日本の村。 出てくるキャラクター達の不思議な魅力が良い。 こういうの描かせたらツツイの右に出るものはいないなぁ、と思う。 「偽魔王」 これも悪魔モノ。 オチが昔のツツイを彷彿とさせる。 いいかげん陰惨な描写が続いて作者がぼやく、というアレ。 メタ視な作品で好きです。 「カラダ記念日」 サラダ記念日、のヤクザ者によるパロディ。 原典にあたって読むべき。 と言うことで。 まだ「最後の伝令」も読んでない @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@

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