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いとうせいこう



いとうせいこう「解体屋外伝」/講談社/1996/07/15(1993/07初版)

・・・いや、実はこの本、読了してから直ぐに会社の先輩に貸してしまってて。
半月後、氏が会社を辞める前に返して貰ったのだけど、
その頃には内容を忘れてしまっているという。

でも、貸し出す前にメモった感想があるのでそれを元に構成してみます。

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「暗示の外に出ろ。俺達には未来が有るんだ。」

成程。こりゃ凄いや。
一見ありがちな世紀末サイバーアクションものの体をしており、
そっちの方に目が行ってしまうと「ありがちですね」という事に
なってしまうのだけど・・・その真体が「洗脳」に有る事を考えると、
背筋を走るものがある。僕等の知らないところで、事態は既に
引き返すことが出来ないほどに進行してしまっているのではないか。

洗脳と洗脳外しの跋扈する近未来。
人の精神のメカニズムはまったく「メカニズム」として理解されており、
その結果「精神」を作り上げることは出来なくても、染め直すこと
或いは解体することは出来る、という−

そこでは人は簡単に洗脳され、あるいは「解体」される。

主人公の「解体屋」は以前に洗脳戦争に敗れ廃人と化していたが、
冒頭、タイの少年・ソラチャイの声で復活。
自分を洗脳した洗脳者・ウォッシャー達への復讐を誓い、
ソラチャイらスクワッターズ(建物不法占拠者達)を利用して
(或いは利用されて)洗脳屋達に戦いを挑んでいく・・

見所は各所に有るが、個人的に気に入ったのが
錠前屋(プロテクター)からのメッセージCDをかけつつ
それに対して返答(疑似会話(フェイク・トーク))し、
其の向こうにあるメッセージを読み出すという「イライザ暗号」解読シーン。
この作品の雰囲気を代表するシーンであると思う。如何にも「有りそう」で
然も(少なくとも僕は)初めて見た。非常に「らしい」。

絵的に好きなのは管理人の大立ち回りのシーン。
あの場面転換の格好良さ、アクションの確かさ(踏み込みとか)は士郎正宗的だ。
展開も突然で、非常に虚をつかれた感じがして気持ちよかった・・・


「神経洞窟(ニューロティック・ケイヴ)」「高速洗濯(コイン・ランドリー)」
「自己洗脳(セルフ・ウォッシュ)」「世界暗示(オリジナル・ランゲージ)」
等々の単語(勿論しっかりとした意味に裏打ちされたもの)が飛び交う。
この造語感覚はまさにいとうせいこうだ。

また、決め打ちの「格言」がこれまた数限りなく飛び出す。
冒頭に書いた「暗示の外に出ろ・・」や「予言には唾を、暗示には微笑みを」
等々。

解体屋の言葉遣いは常にそう言った「テクスト」と意味変換された言葉に満ちている。
これが一層「解体屋」の解体屋たる雰囲気を作り上げている。
単に彼がそういう言葉遊びが好きなだけ、と言うのではなく、それら全てが
「解体屋」としては意味のある行為なのだ・・・という風に書かれている。
巧い・・・


サイコ・ダイブの描写がもう少し「具体的」ならばこれは
本当に洗練されたSFである。
解体屋がその精神を3つ(マザーコンピュータ、操作者、戦闘者)に分けて
それぞれの役割分担の中で精神世界の作業を行っていく描写などは実にイイ。
ただやっぱり「アシッド的」過ぎてその辺の新鮮さには欠ける感が有るが・・・
漢字の造語にカナでふりがなふるのも古いと言えば古い。
黒丸尚の訳文は、死して後何十年も影響を与え続けている・・・

だが、SFと呼ぶに足だけのセンスオブワンダーを感じたのは、
実は解説の香山リカの文章を読んで初めて−だったことを告白する。

「今からでは、もうすべてが遅すぎる。」
この恐るべき精神戦争は、既に始まっているのだ。
考えてみれば、ノーライフキングも、ワールズ・エンド・ガーデンも、
全て「現実に先立って物語られた物語」だった。
私が作品に出会ったのはその「現実」が過ぎ去って後だったが。

いとうせいこうの「切り取る力」は、今現在を切り取るのみならず、
今現在から予想しうる将来、の姿を切り取る力でもある。

で。「ノーライフ」程にドキドキ出来なかったのは、結局読者としてのレベルの
低さ、に有るのだろう。低さというか、感覚の遅さというか。
「読解」が出来るかどうかで作品の「重要性」が全く変わってくる。
そういう作風、作品。

「ノーライフ」を読んだときは、既に「噂のネットワーク」についての
知識は常識として脳内に配置されていたから、その情報を元に面白さを
翻訳できていたのが、ワールズ・エンドやこの作品は、まだ僕の頭に
意味解釈するだけの知識が無いので−という。それが証拠に、巻末、
解説の香山リカの文章を読んで初めて背筋に走るモノを感じたのだ。

「そうだったのか!」という。


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・・・・駄目・・・。

この手のアクション主体の小説は読後直ぐに感想を書かないと
どんどんその「感想」が薄れていく・・・一度は脳内に構成された
「感想」は斯うして形に残さなければ押し流され、別の情報の流入によって
希釈され、拡散して意味を失っていく・・・・

次は出来るだけ早く書くことにします・・・・
@@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
(980420)


いとうせいこう・みうらじゅん「見仏記」/中央公論社/1993/9/20 今奥付をみて驚いた。1993とは。 ついこの間「出た」てのを聞いた様な気がしていたが・・・ 当時、みうら氏の仏(ブツ)好きがTVなどで取り上げられていた裏には、 この連載があった訳か・・・連載は「中央公論」1992.9〜1993.9。 内容はタイトルの示すとおり、奈良・京都・東北・九州を股に掛け 仏閣を巡り、仏像(ブツ)を見て歩く連載。 イラスト:みうらじゅん文章:いとうせいこうという体で どうしてもいとう世界がメインに来てしまうのだけど・・・ 矢張り、というか、いとうせいこうの文章というのは (それ程読んできた訳じゃ無いけれど)脳を刺激してくれる。 彼の「現象(現実)を切り取って提示してみせる」センスは 本当にツボにハマる。知識や経験以前の「センス」。生来のモノだろう。 で、そうやってゲンジツのブツを前に、果てしなく現実認識のメタ化とか リアリティの複雑化とかそういう内部思考へ暴走していくいとうを 現実に引き戻すキャラとしてのみうら氏が居るという弥次喜多展開。 いとうせいこうの、「現在見ているもの」を見ないで、 直ぐに観念世界へ飛んでしまう「悪い癖」を見ていると、 自分は「いとう寄り」だなぁなどと感じたり。 「観念に逃げ込むことなく、事実を感じる」(p48)事の難しさ・・・ それに相対する存在としてのみうらじゅん氏の 現実を現実のみとしてとらえる「感想」がまたヘンで良い。 いとうをして「仏像をよりよく見るためのみうらさんのアイデアは、 常に奇抜ではあるが効果大だ。」と言わしめる、その暴走気味な 言動のオカシサ(仏像メリーゴーランド(p125)とか)が、 いとう世界(内的世界)で理論化されていく・・・というパターン。 文章はいとうの目から書かれているので、有る意味 「仏像を前にしたみうらじゅんの生態観察」的側面も有り みうら奇言動録としても楽しめたり(勿論それもいとうの術中なのだが)。 御開帳後の吉祥天をワイキキビーチにまで連れていってしまうみうらマインドは 殆どSFだ。戒壇院の四天王を前にみうらは言う。 「昔はモテモテだったよ、この人らは」 好きだ・・・こういうの。一瞬笑えるんだけど、その後意味の深さにゾクゾク来る。 ” しばらく無言のまま四天王を見ていると、みうらさんがすっと身を寄せてきた。  にやりと笑って、こう言う。  「かっこよさの基準は変わってないねぇ」”(p154) 勿論それはいとうせいこうの耳目を一度透過し、濾過されているからこそ ハッキリと見え、感じることが出来るものだ。 氏の「切り取る巧さ」をつくづく感じる次第。 で、暴走するみうらとそれを理論化するいとう−のパターンが、巻末に至って 実はこの「暴走」と「理論化」構造は最初から逆転していたのだ・・・ とか(P237〜)、この辺実に上手い。 いや無理矢理作ってる訳でもないんだろうけど、巧い。巧いなぁ・・・ 仏像が「観光」の対象になった展開についての歴史を語って(p134)みたり、 文殊に恋したり(p186)(この下りは最高。「いとうさん、文殊に恋したね?」) しつつ、お互い相反する現実認識方法を持つ二人の旅は一年続き そして京都駅のホームで33年後の再会を期して、別れるのだった。 このへんの「ラストシーン」空気を感じただけでもう読んだ価値有り。 ちょっといかがわしいあたりがまた良いのだ。 ”心”があふれ過ぎているから、今こそブツを見直しませんか。 フム・・・ @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (980105)
いとうせいこう「スキヤキ」集英社/1995/9/30 『スキヤキだ。それなしでは生きていけない』 いとうせいこう氏の作品を読むのは、「ノーライフキング」 「ワールズ・エンド・ガーデン」以来3冊目です。 前2作が小説だっただけに、社会小説かと思いきや、これがただただ 全国を巡ってスキヤキを喰うだけ(本当に!)というエッセイ集。 連載(小説すばる1993/12〜1995/7)されていた時から実は有名だったらしく、 知っている方もおられるかもしれませんね。 どう評したものか、いやもう本当にただスキヤキ喰ってるだけなんです。 でも、その文章が心地良い。 エセハードボイルド文体とでも言おうか、馬鹿文章の類ですが 実に洗練されていて読み良いです。 こういう文章、真似してみたいですね。出来ないけど。 登場する各スキヤキストキャラクターがまた良い。 レギュラーは編集関係者やカメラマンなんですが、実に妖しい雰囲気を 醸していて良いです。 妄想大王スキヤキストS、言葉使い師編集者C嬢、 感動をシャッター音にするカメラマンA、他ゲスト、もう全員スキヤキを前にして 取る行動がオカシイ。笑えます。 わはは馬鹿でぇ〜と読みながら、作品の奥底に流れている埋められない寂しさの 様なものに触れた気がします。 喪失したものを取り戻そうとする(それは例えば「家族団らん」であったり)姿を 観るとき、何気ない寂しさに震える思いがしました。 ワイワイと喰い歩きながら、全国を味見した後、最後に自宅で最高級のスキヤキ鍋を 喰う彼等の姿に、祭りの後の悲しさを、既に始まった時点で感じるのだった。 しかしスキヤキってのをこう明確な(実は明確なカタチは無いのだけど)表現で 表したのって無いんじゃないですかね。 しかし、「喰いたいなぁ」と思う以前に、読んだだけでゲップが出そうになる このスキヤキ描写!柔らかい肉、割り下の濃い甘さ・・もう口の中あの味が・・・ だいたい作中一章目で既に   全員、放心していた。腹がふくれ過ぎていた。やがて、C嬢がおもむろに言った。  「スキヤキって複雑な食べ物ですよね。最初はワクワクするんだけど、食べ終わると  ”二度と見たくない!”って思っちゃう」 という風に、もう「食べたくない」状態なのだった。 でも・・・ あー、スキヤキ喰いたい。 関西風の奴。 今最近純和食モードのワタシ・・・ ではまた。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
いとうせいこう「ワールズ・エンド・ガーデン」新潮文庫/1993 1991年に刊行されたものの、これは文庫。 香山リカ氏の文章でしばしばお目にかかっていた作品であり、もともと 「ノーライフキング」の魔術的な面白さには未だにひかれてしまう私です。 地上げによって出来た東京の一角に作られた疑似イスラム世界、 ムスリム・トーキョー。 と言っても「重力が衰えるとき」のブーダイーン(だっけ?)じゃないよん。 もっといいかげんというか、一つのプロジェクトとして生まれ、たった2年間だけ と決められた、仮の世界。そこへ文化の発信者とされる若者達を呼び、住んで貰う。 ファッションや音楽の発信地として、その土地そのものに価値付けをするのだ。 期待されていた通りの結果をあげていた所に、ある日謎の男が現れる。 彼は予言者としてまつりあげられ、次第に宗教色を帯びていく。 主人公の恭一は、その宗教側にも、反宗教側にもつかず(つけず)、孤立している 存在である。企画屋としての才能は有るが、あまりにも弱いそのキャラクター。 彼はその予言者に「救い主」として名付けられる。 仮の世界、2年きり、という約束だったものが、その予言者側によって聖地化され、 住人達は立ち退きを拒み出す。 本来根無し草だった住人(文化発信者達)達の筈だったが・・ 抗争は続き、どちらも狂気を帯びてくる。 男の素性を調べようとやっきになる反宗教側、 男の言葉ひとつひとつを大事にかかえこむ宗教者たち・・・ そしてついに地上げ屋は実力行使を始める・・ 作中には宗教、洗脳、洗脳外し等々、最近ではすっかり身近(・・・)になった シーンが展開されていますが、書かれたのは4年以上前なんスよね・・ 精神科医たる香山氏がひかれたのも当然と言えましょう。・・・・ ・・しまった「乱読パラダイス」また借りてこないと・・・ 物語は「連合赤軍」「浅間山荘」な定型パターンを通り過ぎて、終わります。 ラストの終わったんだか終わらなかったんだかわからないけど、「酔いが醒めた様に」 その熱狂が冷めていって、いつのまにやらなんとなく、終わっていた。後には「虚ろ」 だけが残る・・・っての好きです。わたし。 ・・あー・・・ この作品の大本は矢張り人間の内面を主として扱っているので、概要だけでは なんのことやらわかりませんね。すいません。 他にもメインのキャラクターは4人程居て、特に「解体屋」と呼ばれる男は 非常に魅力的です。あと、サキミという女性。彼女が最期にとった行動に、僕はまだ ちゃんとした判断というか評価を下せないでいます。果たして・・・? 非常に良くできた「青春の蹉跌」譚だと思います。が、それだけではないのは いとうせいこう作品の基本。 膨大な知識。古今東西書物からの「模倣」原テキストを探っていけば、 もう泥沼でしょう。七面倒くさい解題はもうその道の人に任せたいと思います。 いろんな読み方が試されている様だし・・・ ただ、悔しいというか、僕の脳がおいつけない次元で物語が展開されているような そんな気もしました。(頭悪いんだよ) 「ノーライフ」が、その物語の肌合いまで完全に感じとれた(と少なくとも感じた) のに対して、これは・・・・まぁ長編だしね。 そういう意味で「気に入ったならそれが傑作」な私にとっては、「ノーライフ」には かなわなかったですね。残念。 作中のイスラム趣味なんかは、矢張り湾岸戦争頃の、あの頃を思い出させますね。 世界的に流行ってた様ですし・・・コーランのCDなんて。 僕もイスラム圏へは行ったこと無いですねぇ・・ かろうじてレオマワールド行くくらいかしら(をい)。 あとスケボーが「速さはムスリム・トーキョーの絶対美」な描写として よく出てくるんですが、インラインスケートの登場で、それも現実の姿に成りつつ 有るのではないかしら。 ヨーロッパじゃアレ履いたまま地下鉄乗ってましたもん。 いやそれだけ。少なくともスケボーはもうちょっと古い感じ・・・ ボーディングはスノー上に移っちゃいましたね。 話がそれました。 期待していた作品(なにせ読む気合いなくて背表紙だけ1年間も見てたもんで、 妄想だけで物語が一個出来上がってたり)と、全然違っていて、それはそれで 良かったです。ええ。 「ナイトヘッド」みたく深夜にドラマ化すると受けると思います。個人的に。 ムスリムトーキョー、作るのタイヘンだけど。 ではまた。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (1996?)
いとうせいこう「ノーライフキング」(新潮社) 今更・・・ 実は映画の方もまだ見たこと無いんです。 いやー、面白かった。興奮しました。小学生にとっての噂話の巨大さ、重要性。 全く真実ではない、まるっきりフィクションでもない。 ただ、かつて子供だった我々には、「解る」 その、興奮。 より人数の多い集団を選んで移動し、話を合わせる。 この気分、この雰囲気・・・・ たしかに、(いつもいつも噂につつまれていた訳ではないが) 噂は熱病として自分をつつみこんでいた様な気がする。 「ノーライフキングハイキテイル」 ・・・この高揚感!!!! 設定が実にうまく生かされているのも良い。 ゲームマシン「ディスコン」も、今なら 絶対こんなん子供には受け入れられないだろーなー と思われるタイプのものであるが(ゲーム自体もコマンド打ち込み式なのである) MSXがファミコンと戦っていた時代もあった。 一種の近未来であるが、どうも過去の臭いでいっぱいなのは、彼ら主人公が「小学生」 であり、その小学生が世の中で大きな存在をまだ示していた昔を思い出させるからか。 ドラクエ、なんかで世の中は騒がなくなった。 不況だから? でもたしかに子供達のあいだには確固とした噂のネットワークが 息づいているにちがいない。今も。 子供達がこの作品の様にネットで結ばれたとき、ノーライフキングは現出するだろう。 ワスレナイデ ハーフライフ (1994?)

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