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大槻ケンヂ



一万本の映画を観るより、一回キスしたことのある奴の方が存在意義があるのではないか?
(最終更新 02/09/02)

大槻ケンヂ「オーケンののほほんと熱い国へ行く」/新潮社/1998/10/01
                          (初:1991/12 学研)

学研のオーケンのほほんシリーズ、記念すべき第一巻。の文庫版。

25歳頃のオーケンが、TVの企画でインドに行ったり、「充電」のためにタイに
行ったりする話。時期的には、「断罪!断罪!また断罪!」の後になるらしい。

インドと言えばレインボーマン。レインボーマンの主題歌から入って、ヤマトタケシ
の勘違いっぷりを枕に語り始める辺りはいつものオーケン節、なんだけど、いざ
実際に現地に行ってみると、その圧倒的な「でたらめさ」を前に、ただただ受け身
になってしまうオーケンなのであった。

目の前で展開される事象に対して、あの独自のノリツッコミを展開する事も忘れて
「素」になってしまっている感じ、それがなんとも、良い、というか、気怠い、
というか。

でも、それも結構「らしい」感じ。元々傍観者的な所は有る人だし。手持ちの切り口
ではとても表現できない対象に対しては、ただ思考を停止して、そのまま(呆れつつ
も)「もーどうだっていいや……」と受け入れてしまう、ってのは、ああ、あるよ
な、と。今ならそれでも一応ネタにしていじり倒すんだろうけど。

圧倒的なインドの(主に物売り/物乞いの)パワーの前に沈黙していたり、タイの
灼熱に焼かれて沈黙していたり、南の海でクラゲのよーにただ漂っていたり、全編
そんな感じなのだった。そこに「意味」は無い。


作者の”旅行記”好きは結構伝わってくるんだけど、所謂旅行記、とはやっぱり何か
違う。ただ、行って、見て、帰ってきた、というか。そこに「意味」を見いだせて
無い。本人曰く
「インドの旅は、どうやらボクにとっては「負け旅」になってしまいそう」。
ショックを消化不良のまま自分のもといた場所へ持って帰ってしまうのが「負け」
なのだという。解る気はする。

読んでいて爽やかな気持ちに、とか、旅に出たくなる、とか、そう言うことは、
まるで感じなかった。ただ、ああ、11年前、長髪の東洋人がこうして「熱い」国を
ホテホテと歩いていたのだなあ、そんなことがあったのだなあ、と、妙に淡々と
受け入れてしまうのだった。


文庫では沢野表紙になっていることもあって、何か椎名誠のエピゴーネン的なものも
感じない訳ではない。ケンネケンネ的な。この後彼がものする作品の数々に比べれ
ば、成る程まだまだ「タレント本」という感じもする。でも、なんかその、飾りの
ない、あけっぴろげな(彼流に言うなら)「のほほん」っぷりが、その後にも通じる
一種の痛みというか寂しさというか、そういうのをたたえていて、あーこの人の
人生、ホントに一筋縄じゃないよな、とか思ったのだった。

作者にとって「のほほん」というこの言葉には、わりとマイナーというか、哀しげ
な印象が有る様だ。冬の日の縁側というか。忘れ去られた空き地の錆びたブランコ
とか。そんな感じ(いやそんな感じとか言われても)。

移動中に見える風景の描写は、何というか、妙に切ない感じがした。流れ去っていく
遠くの灯火とか、そんなのを何気なく書いていて、それが妙にしみるのだ。
ひとり旅はこれだよな。


でも、あー、この人はやっぱり大上段から虚構を語って欲しい、と思う。エッセイ
も一時期ハマリ込んで読んでたけど、あの虚構の持つ力に比べれば何程でもない。
「現実」がいくらドギツイ笑いを運んできても、彼の語る虚構の、あの漆黒の美しさ
には遠い。風車男のリメイクを聴いて、グラリときたよ。
@@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
(02/09/02)

大槻ケンヂ「オーケンの散歩マン旅マン」/学習研究社/1999/10/07 「のほほんと熱い国へ行く」 「行きそで行かないとこへ行こう」 に続くオーケンののほほんシリーズ第3段。 イイ。実にイイ。 「海外編」 「国内編」 「ツアー編」 「しみじみ編」 「都内編」 「その他モロモロ編」 とあるのだけど、「しみじみ編」のしみじみさ加減は絶品。 第一級のしみじみ心象風景を見せてくれる。 「何かもが嫌になり一人旅に出た。」 筋肉少女帯の活動を休止した後。 バンダイ製ブースカのぬいぐるみ(発声デバイス組み込み済み)を抱いて ホテホテと適当な場所へ出掛けてはしみじみする33歳。 このブースカの存在感が実にイイ。 オーケン独自の「しみじみ」世界を演出している。 ブースカのバンダイ製ぬいぐるみ(オトモダチ用)を探しに 平日の遊園地に(冬の朝から)一人でやってくるオーケン。 いざ来てみて、その人気のなさに孤独を感じる。 「 だがこの孤独、嫌いではない。   人気の少ない遊園地を一人でさまよい歩いていると、心のみ童心に帰り体は大人の  まま、過去と現在の狭間を意識が行きつもどりつ。知らない街へ一人でお使いに  出掛けた子供と、子供のお使いを影で見守っている親の両方を一人の中でやって  いるような・・・よくわからんが一人ぽっちなのに不思議と楽しい散歩だ」(p136) 平日の(特に冬の)遊園地というのは非常に独特の孤独感寂寥間に充ちている。 そしてそれが心地良い。一人で遊園地に(いい年して)出掛けてみるのは、実は なかなかに自傷行為的味わい深い行為なのである。確かに怪しい存在ではあるけどね。 大学時代孤独とヒマを同時に持て余したある人物が そういう怪しい存在となってみさき公園などに佇んでいた事実を誰も知るまい。 だから、というか、冬の平日の遊園地(午前中)とかいうと無条件で しみじみスイッチがONになってしまう。 「ガイファード」っていう特撮でやっぱり冬の平日の遊園地が バトルフィールドになってた回があって、大した話じゃ無いのに ビデオが消せないでいたりする奴も居るのだ。誰だ。俺だ。 彼女と疎遠になったオーケンはアコギとブースカを抱えて飛騨高山へ。誰も居ない 公園の丘の上で、ブースカを隣において「やつらの足音のバラード」をつま弾く。 このシーンの美しさよ。 「 そうしたら本当にヒョオオオッと風が日の暮れかけた西の空から吹いてきて、  オレはチョッピリなんというか・・・アンニュイな気持ちになっちまったのである。  「どうだブースカ改めピグモンよ、哀しい唄だろ」  「しおしおのパ〜」」(p170) 最後のはオーケン自身が発声デバイスのスイッチを押して発声させているのだけど。 しみじみとするだろう。何しない。そうかなー。 高校時代、一緒に映画を見た友達(道ならぬ恋の結果逃亡生活中)に会いに行く 下りも実にしみじみと味わい深い。懐かしさと侘びしさと寂しさ。 そう言う中に何とも言えない緩さも。諦観の向こうにある妙な清々しさと言うか。 これは現実なのか虚構なのか。一億の人間がいればこういう話も 実在し得るのだろう。それに触れることがあるかどうかは別として。 ああ、全部が全部こんなしみじみしたお話ではないのよ。 ライブツアーの描写はいい年して相変わらず激しいなーとか、オタクネタは 相変わらず濃いなーとか、何よりその文章自体に無類の面白さがあって、 決してじめじめしたものにはなっていない(なり切れて居ない、というか)ん。 サービス精神が根の所に有って、どうしても読者の笑いを取ってしまう様な。 それが実にオーケンなのだ。鬱期の文章にさえそれは有った。でも この本を読んでいると、よりその「復活」ぶりが見えて嬉しいのだ。 冒頭「助手席のインド人」(インドでタクシーに乗ったら何故か助手席に インド人が乗っていて、何故かと問うと「友達ダカラダ」という)の 「友達か。友達はいいものだ。友達なら仕方がない。  などと納得できるか!なんでお前の友達が乗っとるんだ。」(p32) あたりのノリツッコミの面白さは、以前にもましてイイ塩梅になってきている。 言葉の選び方もそうだが、とにかくネタのヒネリ方に幅がある。引き出しが広い。 どこまで行くねん、というノリ暴走のあと、さくっと突っ込んで次、という感じ。 東京タワー蝋人形館でのボケ(ノリツッコミののノリの部分?)なんか延々1ページ 続いて、一言で終わらせてみたり。実に如才なく巧い。スーパーカー(!)を見に 行って、「サーキットの狼」の内容解説をする下りのあの身も蓋もない解説とかも。 つくづく思うのだが、この人は本気で文章の世界に入るべきなのではないか・・・ 「ヌイグルマー」も買ったけど、やっぱ往事の深みというか、ガッと 掴まれる様な、あのドロドロ幻想世界は見られない。違和感、は感じるけど 違和感を乗り越えて聞かせるだけのイメージが見えない。 「筋肉少女帯」は音一つで世界を見事に描いて見せていたから・・・うーん。 結局あの声も好きだけど、やっぱりオーケンの描く「世界」が好きなんだよな・・・ 昔は良かった、何て言いたくは無いけど。 いなたい店マップは是非完成させて欲しいと願う @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (00/11/19)
大槻ケンヂ「オーケンののほほん日記」/新潮文庫/1999/06/01 新潮文庫なんて買うの久々。 でも確かに昔からミュージシャンのエッセイ本って 妙に新潮文庫のイメージがないでもない。細野晴臣とか。 巻末の目録を見ると他にもオーケンの本結構出てるのね。未読あり。買うか。 で。 やー、何か「楽しい」「面白い」って簡単には言えないしオススメもし難いん だけど、兎に角読んじゃう。読まされてしまう。そう言う感じ。 Web日記にハマった頃、一面識もない人の日記を延々遡って読んでしまった・・・ という様な経験が私にはあるのだけど、そういう感じ。 そう言う風に無理矢理読まされてしまう「他人の日記」には 一種独特のパワーがある。 この本はタイトルが示すように、ロックバンド「筋肉少女帯」のボーカル 大槻ケンヂ氏の日記な訳である。掲載期間は1992/03/20−1995/10/07。 一度ぴあ誌の方から単行本化されているが、文庫においては脚注等加筆訂正有。 「TVぴあ」誌上で、唐沢商会のガラダマ天国とこのオーケン日記が 同時掲載されていた時代、あれはもうこんなにも昔のことだった訳だ。 ついこの間まで、深夜のローソンで(当時徳島にはコンビニはローソンしか なかった。今は他にサンクスがあるが、ファミリーマートは無い)この蛭子絵の ついた毒電波日記を読んでいた気がするが・・・ 当時、筋少好きと寄っては「テレぴ読んだか?」「やべえよなあ」とか 言ってたもので。特にこの本の後半、昨今大流行の不安神経症に冒された オーケンの苦闘は、当時非常に何というか「病」って感じがして怖かった。 今じゃ(Web上をはじめとして)ありふれちゃってるけど、当時はやっぱ あのカミングアウトの様は不気味だったのよ。前向きににカミングアウト するってのが。妙にポジティブっぽい自己肯定の嵐がまた怖い。 躁状態にある人間を見ているような怖さ。不安神経症の泥沼と闘いながら、 どうにかその泥沼から顔を出せたときにだけ自己肯定の言葉を 書き連ねておいて、それでなんとか耐えている様が目に浮かぶ。 浮かぶんだけど、同情の感情以前に怖さが。 この「怖さ」ってのは、こう、別の世界の価値観で生きてる生き物に いきなり肩を抱かれて語りかけられてる・・・様な感じ。 根本の所で「常識」を共有できてないと言うか。こればっかりは 「そういう」状態に陥った者でないと解らないのかも知れない。 格闘技にどんどんハマっていく下りとかも正直解らなくて。何で?みたいな。 格闘技好きには「解る」世界の話かも知れないんで、その辺は僕の感性の 狭量さが単に出てるだけなのかも知れないけど・・・何かね。 そこに所謂「電波」を感じてしまう。今読み返してみても。 この日記はその電波の殆ど最高潮のところで切れている。 展開としては「快方」に向かって居るんだけど、ノリが明らかに 「違う世界」のまま。「いっちゃった」まま。これがまた怖い。 まー週アスの「90くん」とか見てる分には安定してて、そういう「怖さ」は 最早感じられないけど・・・ 本そのものとしては、中盤のUFO、トンデモ本関係も日記レベルどまりで 今一つまとまりを欠くし、正直情報資料として読むことは難しい。 その辺も含めてホントにWeb日記な感じを漂わせている。ただ、強烈に 「自分の世界」を持っているので、その「世界」に身を浸してしまえる 快感めいたものはあるが。 深く突っ込もうとすればもう幾らでも引っかかるので、その手前でやめときます。 こういう「ツボ」だらけの文章ってのは、読むのも疲れるし、それについて 何か話そうとするのも疲れる・・・ま、読んだよ、と。その程度でご勘弁。 しかし、アレですね、こうして日記読んでみると、オーケンの詩ってその多くが 「実体験」から来ていたのね、という。嘗て「香菜、頭をよくしてあげよう」で 滂沱と涙を流した私だけど、あの歌もまた「ほんとうの言葉」だったわけだ。 あの名作「生きてあげようかな」なんて元々は自殺を繰り返す彼女のためだけに 作った歌、だし。読み落としていて、今回初めて知って笑ってしまったのは P327あたりからのモンブランの下り。あの歌の最後に繰り返される 「良い日があるから生きていこう」ってのは、この日の印象そのままだ。 初めて聞いたときから「モンブラン」にいろんな意味を(勝手に) 読みとっていた私なんかはヘコー!という感じ。 ・・・いや、でも、あの歌の出来の良さは変わらないけどね。 ・・・正直、あの「I STAND HERE FOR YOU」(セカンドソロアルバム)には 救われた人間なん。あの鬱々とした日々・・・テレコンワールドを見ては 夜明けと共にベッドに潜り込み、誰とも会話を交わさないで、活字のみを 友として。一人で暗い部屋でじめじめと、襲い来る鬱と必死で戦っていた頃 (今でもたいして変わってないが)、ワタシはあの「イイ兄貴」な歌声と 「大丈夫、生きていこう!」という励ましに満ちた選曲に、かなり救われた。 実際何度聴いたことか。何よりもあの「天使たちのシーン」の衝撃。 小沢健二のオリジナルを手に入れたのはそれからしばらく後のことで 「あーやっぱオリジナルがイイね」とかって、その曲に関しては さっさと乗り換えちゃったんだけども。いや実際「犬」の衝撃は凄くて 僕を部屋から街へと引きずり出してしまった程。その後エヴァにハマって また部屋に逆戻りしたりしてあーなんつーか基本的に鬱々してるのが 好きなのか>自分。ってそれはまた別の話。 で、今はもうアレは聴かない。聴けないよな。「あのさぁ」なんて。 あの弱々しさ。あそこまで「ベタベタした弱さ」を肯定した歌も無い。 いや、それが誤りだと言うのではないんだ。ああいう心境の時は やっぱりあの曲がもの凄く支えになってくれる。 必要なときに聴くと、ちゃんと効くのだ。クスリの様に。 で、今は個人的にはもっと「虚構虚構」した詩が好き。やっぱりベストは、と 言われれば「ステーシーの美術」になったり。アレこそはオーケンの 「復活の狼煙」だった訳で。行くぞ、行くぞ!!という血の騒ぎが聞こえてくる。 アルバムとしての完成度も高いし、何より詩が、曲が、もう兎に角好み。 一冊の本のような。次点は「キラキラと輝くもの」。いまだに 「あなたの くだらないお話は 私の胸しか〜」の下りで泣けたり。 殆ど条件反射だけど。 ・・・でも、その後のは正直駄目。UGSは面白かったけど、これも 面白かっただけ。挙げ句筋肉少女帯は活動を休止。 トラウマパンクの世界をどうしたかったのか、80年代ロックシーン回顧は どうしたのか、90くんは一体どこへ向かっているのか。まだまだオーケンの 文章からは目が離せない・・・・って単にオーケンファンなだけじゃんか>自分。 でも、ホント、「真剣に生きよう」と思ったとき、頭に浮かぶのはオーケンの 生き様だったりする。生きることをあきらめてしまわぬように。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (99/06/28)
大槻ケンヂ「ステーシー」/角川書店/1997/7/25 新作CD「最後の聖戦」で、より格闘世界への傾倒をうかがわせるオーケンだが この「ステーシー」はそれ以前、破滅直前の欝期から立ち直り、 それまでのドロドロと対峙し出した頃の雰囲気が強く残っている。 ・・・しかし、その後幸福になったと聞く      いいな それは なんだか涙が出るな・・・ タイトルのステーシーとは少女達のゾンビのことである。 「十五歳から十七歳までの少女たちが世界中で集団的な変死をとげ、さらに  数時間後に、歩き回る屍・・・ハイチの言葉でいう「ゾンビ」と化」してしまった 少女達の事を言う。彼女らは人肉を食らう。殺さなくては、ならない。 彼女達の周りの人々は、一旦失った者を、再び殺さなくてはならない。 然もステーシーは一六五分割しないと死なないのだ。斯くて少女を切り刻む 血みどろの殺戮風景が、至る所で見られる様になった。 これを「再殺」という。 この世界を舞台に、三本の物語がある種(特殊ではあるが)オムニバス的に 描かれ、この悲しくも異常な世界を立体的に描き出す。 導入と結末に登場する作家見習い渋川の性格的なものは、その風鈴の音と合わせ 筋肉少女帯のCD「キラキラと輝くもの」を強く連想させる。 この本のタイトルこそ「ステーシー」(「キラキラ」の前のCDが 「ステーシーの美術」で、この作品の言わばサントラ。もう一つの姿)だが、 これは「キラキラ」とも併せて読まれるべきであろう。 「風鈴は、どんなに寒い冬の日でも、風が吹けば鳴るんだ。  どんなことが起こっても、私はね、いいように考えたい。」(p191) 当時のオーケンの一面、全てを受け入れ、苦しくとも 良い日が有るから生きていこう、とする姿が此処にはある。 決して克服できない自分自身の「弱み」と対峙する姿。 その渋川の、下駄履きの視点に挟まれ、本編たる「ステーシーの美術」・・・ 女子校(当然今はステーシーの巣)に乗り込んだロメロ再殺部隊の 悪夢と奇跡が展開される訳だが・・・・これがもうキレまくった 「残酷シーン」のオンパレード。 平井和正の暴力描写をこよなく愛する作者の面目約如と言った所。 ページ配分としては「序章」が40P、この「ステーシーの美術」が90P、 そして終章がやはり40P、という些か奇妙な感じのする構成である。 まして終章には二つの物語が詰まっているのだ。 だが、この一見巧まないアンバランスな構成、不規則さが、 ある種のリアルさを生み、またブンガク臭を醸し出している様に思う。 終章の「違法再殺少女ドリュー」の少女一人称の強烈な文体も流石だ。 ファイティングバイパーズのハニーのコスプレで(と、まんま書いてある。 お爺ちゃんが物持ち良くて・・・)自分と同年代の少女の再殺を請け負う・・ という気合いの入ったキャラを、見事に創出している。 ・・・ラストのあっけなさも、何だか懐かしい。 或いは畸形少女達が「またいつか!」と別れていくシーンの 「何処かで観たような」格好良さ・・・ この辺、作者の七〇年代SF嗜好が良く伺える。 然し当時でもこんな内容を書いた作家はそうは居まい ・・・ああ、平井和正か。然しそれでも 「十五歳から十七歳の少女のゾンビを殺戮する部隊」の話なんて そうそう出てくるものではあるまい。 「グミチョコ」は兎も角、「くるぐる」やこの本を読んでいる限りに置いて、 オーケンの「SF作家」としての技量は非常に高い。 私にとっては、CD共々買って損無しの「作家」という訳・・・・ 装丁がちょっとねぇ・・・買いにくいかも・・・ でもおススメです。無理にとは言いませんが。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@ (97/10/30)
アタシツマンナイアタシツマンナイアタシツマンナイアタシツマンナイ 大槻ケンヂ「新興宗教オモイデ教」角川書店 を読む。ワイドショーに登場する宗教団体の姿を小説にした様な感覚。 毒電波メグマ波のよくわからなさや政治権力と結び付いた宗教団体 ワイドショーで見る「宗教」の向こう側を見る感覚。 登場人物の一人一人がもうトテツモナク異常なので異常な世界設定も又自然だ。 「最近、ラジオや電波を使って、俺を誹ボウ中傷する者がいる!  オレに「早く狂え」と脳髄に直接毒電波を送る者がいる!  誰だぁ!?名乗りでろお!」 こういった奇異さはしかし立派な「小説」だ。しかもその奇異なモノ達は全て オーケンの生活の中で出会ったモデルがあるのだという。 オーケンはどうもやはりあのエッセイ等で見せる姿とは大きく異なる ドロドロした姿を持っているのではないかしら。 ではでは。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
大槻ケンヂ「くるぐる使い」早川書房/1994 なんとか読了。なんかこれも一年近く読みかけであったぜ。 というのも、一遍を除いて、全てSFMで読んでいたからなんですが 先日聞いた「銀輪銀輪まっはまっは〜」の「ステーシーの美術」の影響で なんか強烈に読みたくなって全編通し読みしてしまいました。 ふふ。 いいたかないが言っちゃうぜ(結局言いたいんやんけ!) ワタシもこの表題作を星雲賞に推した一人です。・・の筈・・ 何せこの年は大会が沖縄であり、勢い参加者は恐ろしく少なく、 投票数は180票足らず。この作品は何と「17票」でこの賞を獲得(時間報VOL.2 /1/JULY/1994/18:30参照)したのだ。 何という有難味の有るんだか無いんだかの受賞・・・ そういう意味で、思い入れなんかも有ったりして・・・ 関係ない人には関係無い話でした。すまん。自慢したかっただけ。 でも、既に評価はされてましたし。当然の結果ではありました。 マニア様の(僕は兎も角)見る目はそんなに歪んでは居ないって事ですね。 ええ。これが3000人規模でも受賞は揺るがなかったと思います。 本当に良い出来。この作品集に収録されている他の作品とも一線を画した出来てす。 で。 唯一未読であった所の「春陽綺譚」(今は亡きSFA掲載)を 今回初めて読んだ訳ですが、ちょっと構成に未熟さ(・・「グミチョコ」とかと 比べて、ですが)は有るものの、主人公の内的世界へ向かうその姿の描写は流石に お家芸(と言ってしまうのもどうかと思うが)で見事。読んでいて心臓が 止まりそうになる。これは「グミチョコ」の時にも感じた事だけど、作者の描く 「危ない」高校生、というのは、ああ!まるであの頃の僕なのだ。 そして「そう」でなかった人には決して解り得ないであろう、あの内的世界への 耽溺・・・・ 今でもそうじゃないか!と言われればそれまで、返す言葉もないが 当時は一応詰め襟着た高校生だったしね。「退屈で理不尽な日常」に耐えるだけの 日々だったからなぁ・・とくに1、2年生の頃は。 ・・・今アレよりマシか、と問われれば答えに詰まりますが。 少なくとも「どろどろ」は減った。 ううむ。読んでいるとまるで今までの日々が夢で、まだ僕はあの午後の日差しで 詰め襟の背中をあぶられながら、眠気と、退屈と、次は自分が当てられるのでは ないか、という恐怖(!)に「耐え」、ただただ時よ早く過ぎろ!と念じている だけなのではないか。自分が生み出した、此処は単なる妄想の世界なのではないか。 そんな風に思える。 考えてみれば懐かしむより苦しい事の方が多かったぜ・・・ あっ いかんまたぞろ「オモイデ」に浸ってしまった。 また、この巻末の、筆者と糸井重里対談も非常に興味深い。 ちゅーか、ヤバ系で。こういうのは唐沢俊一にも持っていけないし(氏はちょっと 「別」の方向なんじゃないかと最近思いはじめました。特に「弟」無しのソレは、 違う・・・)、「と学会」的な視点の、「オーケン風味」。と学会は僕が知る限り 格闘技方面を語らないからな・・・「ザ!喧嘩!」とか。 糸井重里のこういう対談見ていると何とも引き出しが広い。ニュースソースが 基本的に「濃い」からなんだろうけど。オイシイ所を教えてくれる「友人・知人」 は、彼等の場合重要ですものね。 で、 表題作の「くるぐる使い」は、作者の乱歩好き、昭和初期の「闇」文学好きが 遺憾なく発揮された傑作。醸し出す雰囲気、「くるぐる使い」の口上、ラストに流れる 切なさ、全く「道」そのまんまやんけ!というツッコミも、ここでは特に 作品の質を下げることは無いだろう。 是非、この表題作だけでもご一読あれ。 大槻ケンヂが「筋肉少女帯ヴォーカル(何ネオロッカー?)」である以前に 「作詞家」であり、モノガタル能力を持っている「語り手」である事を、改めて 認識される事と思います。 そしてその背後にそびえる膨大な知識の「量」も。 矢張りオーケンは好き。 彼の「闇」は僕の「闇」と地続きだからな。 多分貴方の「闇」とも。 ではまた。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
大槻ケンヂ「グミチョコレートパイン チョコ編」角川書店/1995 やっと(なんと4カ月がかりだ!)で読み終えた。 途中で読めなくなってさ・・・ あー、アレだ、「読め!」と。 読んで泣け。 そんな感じ。 作者の視点、冷血なまでの描写。 読んでいてどんどん辛くなる! それはもう辛い。自分の姿だからな。 この作品の「良さ」をどう言葉にして良いやら、悩む・・・。 青春の蹉跌。 いやー、躓いてるつまづいてる。見事なまでに躓いてるぜ。 前巻のラストで衝撃的な展開を見せた、ヒロインである所の美甘子は 某髭の監督の映画に出演することになり、例によって胸をはだけさせられたり している訳だが、そうやってどんどん「メジャー」になっていく。もうターボ 全開ブッチぎりの彼女に、賢三は焦り、いやもう「次元が違う」競争に負けまいと 必死になる。 かつて、賢三と映画の話題で盛り上がったあの彼女、本と映画、それらから得た 知識によって立っていた彼女は今、芸能界というきらびやかな世界でどんどん その才能を発揮し、また恋人役のアイドルの少年に恋して、 現実の世界に感動を見いだしている。賢三がライブを見に行き、自分たちと同じ 感性を持った人間達が大量にいるのを見て、We are not alone!と感激している 間に、だ。どこかで見たことあるよな。 美甘子はキスをされながら思う。 「もしかしたら今までずっと、あたしは無駄なことをしていたのかもしれない。  虚構の世界の中で現実を学びとろうとする試みは、徒労だったんじゃないのか。  何百冊本を読むより、何百本映画を見るより、好きな人と一度キスを交わすことの  方が、重要なことなんじゃないのだろうか。」(P241) 書を捨てよ、街へ出よう この言葉に何度うちのめされたかわからん。 こうしてまたうちのめされるワタシ。 そして賢三は、結成したてのバンド「キャプテン・マンテル・ノーリターン」の 他の連中がどんどん走り出しているというのに、自分だけが何もできないことに悩み、 そして「何も変わらぬ日々」・・・ 『無駄でなかったのだ』  と賢三は思った。 『黒所のつまらない連中との差別化を図るため観まくった映画、読みまくった本、  みんな無駄ではなかったのだ。ひとつひとつのシーンが、文章が、オレの中でグチャ  グチャにかき混ぜられて、詩となって結実したのだ』  何度も何度も、賢三は自分の書いた詩を読み直し、思った。 『いいじゃないかオレ、やるじゃないかオレ、これだ、詩だ。オレにとっての  ”人と違った何か”とは詩だったんだ。オレは詩人だったんだ。』(P258) と詩を書きつつ思うも、初の発表会の時、仲間の書いた詩、「レティクル座」系の 詩にうちのめされる。 山之上のは良くて、賢三のはダメ。 という現実・・・ この冷たさ!この現実!!! あああああああああああああああああ ああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああ あああ なんという恐ろしい内容であろうか!! だってこれそのまんまだぜ。 時間はどんどん過ぎていく、こうしてボンヤリしている間にも仲間はどんどん 先へ先へ、自分を置き去りにして走っていくのだ。 そしてかつて本や映画の「知識」で他との差別化を図っていたという点で 共通していた二人、マニア同士の会話を楽しんでいた彼女も、恋をして、 「ワタシも若かったのね」なんていう様になっていく!それはもう たかが2,3カ月で起こるのだ。 「もういいや」 山口美甘子のブルマーを見つめながら、賢三はもうどうでもいいやと思ったのだ。 「オレには何もできないんだ。オレが今までやってきたことは全て無意味だったのだ。 もういいや」(P290) わかる!わかるぞ賢三その気持ち!分かりすぎる!!!! 読んでいると自分がそこに居るのだ。こんなに辛い思いをして読んだのは 久方ぶり。結局アレよ、「ユメもチボーも無い」内容。だがこれが現実なのだ! 果たしてパイン編での「救済」はどのようにして成されるのか・・・ しかしオーケンってのは本当に凄い。 そこいらの「タレント本」とは明らかに一線を画した、(でも大抵本屋のそのテの コーナーに置かれてんだけどさ)恐ろしく強烈な本。 自分に「を」質が有る人間は、読むべき。 本当に、心底、オススメです。 時間と内容に対する耐久力が有れば、ものの数時間で読めます。 ではまた。 @@@@@@@@@@@@@@@@ [JUN] @@@@@@@@@@@@@@@@
大槻ケンヂ「グミ・チョコレート・パイン−グミ編−」(角川書店)を読了す。 自分だ。これは。これは俺の姿だ。 と万人が万人、そう思うかというと・・アレだが 少なくとも、高校時代のボンヤリとした怒りとか不安とか焦りとかが 見事に言葉となって溢れている。 主人公賢三が憧れのクラスメートに自分と同じ物を見つけたときの喜びや 彼女の尊敬を得る為に彼女をこえた部分を持たなければならないという焦り 解る。わかるぞその気持ち!! とゆーよーな。 サラッと読めて面白い。 何よりオーケンの言葉感覚の気持ち良さ! おすすめです。 特に(ヲ)の方々には解りすぎる世界が きっと感動を呼ぶことでしょう。

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